鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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るまいか。J(注14)八潮はプラングインの版画を「レピ、ユーのようだjと語り,とても世俗的なイメージで捉えたようだ。プラングインの版画を手放しで礼賛する視点から,早くも批判的な視点が出てきているのは興味深い。『みづゑ』大正7年6月号では,織田一磨が「プラングイン氏のエッチングとリソグラフに就てJと題する一文を寄せている(注15)。ここでも織田はブラングインの版画について苦言を呈する。「ブ氏の芸術は多く表面的であって如何にも内面的でないのが何よりも残念に思ふのである。J(注目)大正7年からしばらくプラングイン評は見られなくなるが,大正14年,国民美術協会展覧会でプラングインが特別陳列されたのに際し,プラングインに師事したこともある栗原忠ニが『中央美術Jにプラングインの思い出を寄せている(注17)。そこではプラングインがエッチングを日本に寄贈したことの意図が明らかにされている。プラングインは「線の美に特別の優美点を有する日本画に於てエッチングの発達しない事を不思議に思はれ画論画法の発達してゐる東洋にありながら,現代日本の洋画にデッサンの余り重きをおかれていないのを歎いて居られます。jということで,104点の版画を寄贈したのだという。さて,その後のプラングイン評はどうなっていくのか。版画というと『エッチング』誌の反応が気になるところである。『エッチング』は,昭和9年12月の26号から28号,29号,30号と森田亀之輔の「英国画家フランク,プラングヰン」を連載した。しかしこれは,前に引用した明治43年5月の『美術新報Jの記事の再録であった。よって新しい情報はないが,プラングインの名を知らしめる意味で二度にわたって掲載されたことは特筆すべきであろう。『エッチング』誌で確認できるプラングインについての新しい記事といえば,79号の西国武雄による「プラングヰンJ(注18)と,後述する112号のw.s.スパロウによる「フランク・プラングヰンのポスターJ(注19)のほかには見当たらなかった。西田武雄は『エッチング』誌の発行人として,昭和14年5月の79号巻頭にプラングインのエッチング〈倉庫裏〉を図版として掲載したうえで,次のような一文を寄せた。「大正7年にプラングヰンが,自作のエッチング四十数点を我帝室に寄贈して来たことは,とうの昔に忘れられてしまって居るが,その作品は,つひこの間表慶館で展観されて居たから,想ひ出した人も多少あるかもしれない。ブラングヰンの影響を受けた作家も明治時代には二三あったものだが,近頃ではプラングヰンなぞの名を口にすることさへはづかしい位に思って居る作者が多いから恐ろしい。j250-

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