大正7年に帝室に寄贈した40数点というのは,おそらく思い違いで,104点が正しい。また,表慶館で展観されたというのは,昭和2年6月に東京帝室博物館でブラングインのエッチングほか50点が公開されたことを指していると思われる。目録によれば,43点がエッチング,7点がリトグラフであったという(注20)。この特別公開によってプラングインが思い出され,rエッチング』誌によるプラングインの再評価が行われたとも考えられる。2 戦争ポスター画家としての名声■プラングイン受容の一側面大正7年の「欧州大家絵画展覧会」で展示されたプラングインの版画のうち,リトグラフの多くが,第一次大戦の戦禍を描いたものであった。そもそも,この展覧会の構想そのものが,戦争難民となったベルギー人画家への義摘金あつめを目的としたものだったのである。そのことについては,上述の拙稿で詳しく述べた。プラングインはイギリス人ではあるが,ベルギー生まれで,少年時代をベルギーのブリュージ、ユで過ごした。多感な時期を過ごした故郷として,またはじめてアーツ・アンド・クラフツの芸術に触れその後の生き方を決定付けた場所として,プラングインは生涯この町に思いを残すこととなる。戦争ポスターとしてプラングインはベルギーやフランスの戦災を数多く描いた。第一次大戦でベルギーから逃れる難民たちが描かれ〔図3J,戦争孤児たちのいたいけな姿も特大サイズのポスターとなった〔図4J。ここでは,プラングイン受容のもうひとつの側面としてこの「戦争ポスターjについて検証してみたい。大正10年,朝日新聞の主催により「世界大戦ポスター展覧会」が開催された。5月19日から20日まで大阪で,その後6月16日から21日まで東京の朝日新聞社で公開されたという。開催に至るまでの経緯は,大阪朝日新聞社学芸部の内海幽水によって『中央美術Jに報告されている(注21)。内海の記事は,展覧会後に発行された『大戦ポスター集J(注22)にも収録されている。このポスター集には数多くの図版のほか,各界からの感想が寄せられており,たいへん興味深い。この展覧会ではアメリカ150点,フランス12点,ドイツ400点,日本250点のポスターが展示されたそうだが,r大戦ポスター集』の序によれば,戦争ポスターの流行にいち早く目をつけた朝日新聞社は,英米独仏のポスター6000枚を集めたという。そしてそのなかから優秀なものを170枚選-251-
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