鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ぴ,このポスター集にまとめたという。ポスター集へ寄せられた展覧会評から,プラングインについての記述を拾ってみよう。内田魯庵は「ポスター概説」として,ポスターの歴史を説明している。プラングインについては「実に大口径砲の砲手の精神を以て戦争ポスターを描くべく生まれたのだ。」と述べている(注23)。また,文学士の菅原教造は「刺激としてのポスター」と題する論文で,プラングインのポスター画家としての活動を説明する。「フ、、ラングインは,英国に於ける戦争ポスターの唯一の大立者でありまして,彼が地下鉄道会社,1914年戦争協会,白耳義及連合国救助連盟,国立盲学院,デーリー・メール赤十字基金等の為に描いた白耳義避難民の惨状,英人召集,仏国孤児救済等のポスターは,其の一枚が一軍国以上の威力を発揮したと云はれたほどの名声を博した人であります。J(注24)ここにある「白耳義避難民の惨状jは〔図3Jに,I仏国孤児救済」は〔図4Jに示したとおりである。まさにブラングインの戦争ポスターの典型と呼べるものであろう。さらにこの本からは,難民を支援するためのポスター製作に,ブラングインが画料を取らなかったという事も確認できる。「画稿の料金や報酬などは一銭も受けなかった。彼は今度の大戦に際して人道のため自由のために最もよく働いた戦士である,殊勲者である。J(注25)プラングインが戦争ポスターを売り絵として描いたのでなく,あくまでもチャリティーとして制作し続けたということが分かる。その延長上に,大正7年の「欧州大家絵画展覧会」があったのだ。3 装飾画家として■共楽美術館構想との関わりプラングインの日本との関わりは,版画にとどまるものではなかった。既に指摘したように,当初ブラングインは「装飾画家」として知られるはず、だった。その後,美術雑誌の図版には版画が採用されることが多くなり,次第に壁画制作の側面は取り上げられなくなっていった。ここで,知られざるプラングインの画業として,国立西洋美術館寄託の4枚のパステル画を取り上げたいと思う〔図5~ 8 J。これらは,先に何度も述べた104枚の版画とは来歴が異なるし,所蔵者も異なっている。よって104枚の版画との繋がりはないと思われる。しかし「松方幸次郎とプラングイン」という領分においては,それらは同じくらい重要なのである。この上部がアーチ型をした4枚のパネルについては,長らく詳しい研究がなされていなかった。展示されたのは,1989年に神戸市立博物館で開催された「松方コレクシ-252-

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