鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
263/716

= {農夫(風車)}と置き換えられるという。ヨン展jのみである(注26)。おそらく壁画の習作であろうということまでは予想できるが,これが何のために描かれ,どこに設置される予定であったのかは分からなかった。しかし,その後の調査により,プラングインの装飾芸術についてのハーパート・ファーストによる著作(注27)に類似の図版が掲載されていることを知った。それによりこれら4枚のパステル画が,1914年のパナマ・太平洋博覧会に出品された油彩パネルの習作であることが明らかになった。また,イギリスでプラングインを研究しているリピー・ホーナーの修士論文(注28)により,そのパネルが現在サンフランシスコに所蔵されていることも判明した(注29)。ホーナーによれば,全部で8点の連作は,i気Ji火Ji水Ji地Jの四大元素をあらわしているという。〈樵夫}[図5), {狩人〉〔図6),{漁師}[図7),{農夫}[図8)を四大元素に照らし合わせると,i気J= i春」={狩人},i火J= i夏J= {樵夫(原始の火)}, i水J= i冬J= {漁師},i地J= i秋」しかし,何故この4枚のパネルが日本にあるのか,という疑問に対する答えはこれでは十分とは言えない。サンフランシスコでの所蔵先が公的なホールであるということを考えても,この壁画が何らかの公共建築に献納されるべきものであったことは予想できる。おそらくその答えは,松方幸次郎が計画し,実現せぬまま幻の美術館となった「共楽美術館」にあるのだろう。共楽美術館の設計,内装のデザインを担当したのはプラングインである。現存する図面(注30)を見てみると,建物の開口部は,上部がアーチ型をしたパネルがちょうどよく収まりそうな形状をしている。しかしこのパネルを使う予定だったという記述は今のところ見つかっておらず,筆者の予想も「幻」のままである。今後,この4枚のパネルと共楽美術館の関わりについては,研究を続けたいと思う。おわりに以上のように経過をたどると,フランク・プラングインの受容には,数回の波があったことが分かる。一度目は石橋和訓の帰国および「欧州大家絵画展覧会jを契機とする大正7年前後の動き,そして大正10年の朝日新聞社主催「大戦ポスター展」前後,さらに昭和に入って『エッチングJ誌が行ったブラングインの再評価である。そして未完に終わった「共楽美術館構想Jにおいてプラングインは中心メンバーであった。筆者の研究は,国立西洋美術館寄託の104点の版画を中心とした研究から,プラング-253-

元のページ  ../index.html#263

このブックを見る