の『金光明最勝王経』にみる護法神としての弁才天像が見直され,その後こうした八腎像は宇賀神と弁才天が結びつき,福徳神として信仰されるようになり,盛んな信仰がなされていく。いっぽう,鶴岡八幡宮の弁才天像は弁才天像の基準作としても知られているが,本像のようなこれまでの八骨ではなく,二管像がこの頃よりにわかに信仰され始める。ただし二管像には先述の密教図像にある二胃像とは異なるような着装像があり,これらの区別においては以下の章で検討する。二,中世における二管弁才天像の主な作例先述のように二菅の弁才天像は胎蔵量茶羅中や図像類に描かれる以外,彫像としては文永三年(1266)銘の鶴岡八幡宮のものが基準作としてはもっとも古い。本像は菩薩像と同じような警を結い,両足を左にくずして坐り,琵琶を弾ずるような手勢をするが,上半身を裸形とし,下半身も腰に下着を着けるほかはなにも着けることないいわゆる着装像である。像底に願主中原光氏が文氷三年九月二九日に造り,鶴岡八幡宮の舞楽院に安置したことが刻銘として記される。在銘の琵琶を弾く二骨像としても古例であるが,ほかにも江ノ島神社像は室町時代以前にさかのぼる可能性が指摘されている(注2)。なお,鶴岡八幡宮像は菩薩のように誓を結い,ふくよかな肉身をあらわす点は注目され,江ノ島神社像は現在後補の彩色に覆われて当初の形状・品質構造等がにわかに判じ得ないものの二管琵琶弾奏像であることはわかる。しかも胸部の膨らみ等を明瞭にあらわし女性像であることがあきらかである。前二像は着装像であるが,近年注目される像に大阪・高貴寺像がある。本像も二腎琵琶弾奏像であるが,奈良時代より入管の弁才天像が着す櫨櫨衣を纏つ姿で,両肩に髪を大きく垂らして正面を厳しい眼差しで見据え,両足を組んで坐る。本像はその像容等から鎌倉時代後期頃に制作されたものとされている。ほぼ吉祥天などの天女形で『阿裟縛抄』や『十巻抄Jに掲載する八管弁才天の髪型・服制に合致する。画像の二管琵琶弾奏像では,静嘉堂文庫本は南北朝時代の作とされ,海上より迫り出す岩上の荷葉座に坐す二管琵琶弾奏像である。本像も前出の高貴寺像と同じく櫨櫨衣を纏う姿であるが,ただ彫像にあるような足の組み方ではなく,両足の腫を合わせて坐る。他にほぼ同じ頃の制作で,同じょっな姿勢をとるものに大英博物館本がある。本像も海上に突き出た岩座上に坐すが,ただし荷葉座はない。しかも本像は下半身に-259-
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