それ以外の調書については付札に記される筆者名をそのまま信じて問題ないと判断できる(注21)。一月の図には「狩野永敬筆jの款と「永敬J(朱文査印)が捺され〔図6 J,それ以外の十一図には「永敬J(朱文査印)のみが捺される。この印は鳥類和歌画巻(寓野美術館)に捺されるものと一致し,永敬筆を疑う材料も特に見当たらない。画面は,淡彩略筆で描かれている。先に見た秋草図扉風〔図1J,群仙図〔図4Jとも異なる表現だが,鳥類和歌画巻(高野美術館)などはこれに近い作風で描いているのでやはり永敬筆を疑う要素はない。この永敬筆の十三カ月歌意図昇風と光琳筆の十二カ月歌意図扉風との関係は興味深い。後者は光琳の法橋叙任以前の数少ない作例として知られ,西本周子氏により詳細が報告されたもので(注22),やはり畠山匠作亭詩歌を絵画化した作品である。この作品の画面を比較すると,描かれた内容は同じだが図は完全には一致しない。しかし,畠山匠作亭詩歌を縦長画面に絵画化した点に共通点があり,より重要なのは詞書を担当する公卿が一部共通する点である。〔表3Jに見るように,光琳本の四月は中院通茂〔図7],八月は中院通餌〔図8Jが担当しているが,これは永敬本でも同じである。更に,鷹司兼!開と清閑寺!開定も光琳本と永敬本の双方で詞書を担当している。つまり,永敬本も光琳本も十二人の公卿が詞書を担当しているのだが,そのうち四人が光琳本,永敬本の双方に関わっているのである。また,光琳本では光琳と親しい関係にあった二条網平が詞書を担当していないことに興味がもたれているが,永敬本でもこの点は同じである。光琳本の八月の図〔図9Jと永敬本の八月の図〔図10Jを対照させると,略筆で描かれた二作品の表現は近い。永敬の父・永納も,同じく畠山匠作亭詩歌を十二カ月歌意図扉風で扇状画面〔図3Jに絵画化しているので,永納〔図3J,光琳〔図9J,永敬〔図10Jの画面を比較すると,描き込んだという印象も与える永納本と,光琳本・永敬本は異質であり,光琳本と永敬本の近さが納得できると思う。また,光琳との関係が問題となってきた山本素軒,狩野探幽が描いた十二カ月歌意図扉風の存在が現在まで報告されていない。ということは,現時点では,この永敬本以上に光琳本と近い関係にある作品が見つかっていないということになる。その永敬本の制作時期だが,九月の詞書を担当した甘露寺方長が没した元禄七年(1694)二月二十日が下限である。光琳本に関しては制作時期に関して意見が一致しないようだが,七月の調書を担当した今城定経が没した元禄十五年二月二十六日が下限であり,最も早期に制作時期を想定するものとして元禄六年後半説がある(注23)。-17
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