鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
270/716

条吊を着けただけの上半身裸形像であることが注目される。このような上半身裸形像は先述の現図胎蔵蔓茶羅最外院の西方に配される像とよく似ている。さらにこれに似たものに室町初期とされる仁和寺本がある。本像は荷葉座上に坐して大英博物館本と同じく上半身裸形の二菅琵琶弾奏像である。本像には「模西園寺家鎮守洞天」の題記があり,谷信一氏によれば応永十四年(1407)に山科教言が,西園寺妙音堂の古写本を転写した孝継所持本を土佐行広に描かせた画像という(注3)。本像は妙音天と称されるが,r別尊雑記』等にあるように弁才天の別称とされている。『教言卿記』にはこの西国寺像を転写した画像がいくつか存在したことが記されている。この西園寺妙音堂は現在鹿苑寺の地にかつてあった西園寺にあった堂宇のこととされる。西国寺は元仁元年(1224)に西国寺公経によって創立されたとされ,そこには妙音堂も存在した。すでに仁和寺本にあるような二骨琵琶弾奏弁才天がこの頃にあったとすれば遺例としては鶴岡八幡宮像より古い作例となる。三,西園寺妙音堂本尊像西国寺は現在京極寺町にあるが,もともとは現在の金閣寺,鹿苑寺の地にあった。この京都の北山の地はすでに知られているように西園寺公経が北山堂を創建したところで,r百練抄J元仁元年(1224)十二月二日の条に,後白河天皇の生母北白川院や姉の安嘉門院らの臨幸を仰ぎ,仁和寺宮道助法親王を導師として北山堂の供養が執り行われたことが記されている。北山堂を号して西園寺と称したので,藤原公経はのちに寺号を名字としたのだが,西国寺の造営はこの頃には完成していたのであろう。しかしその造営の開始の時期について記す史料はない。ただ龍粛氏によれば公経が彼の尾張国葉栗郡の松枝庄と引き換えに伯三位仲資王の所領であった洛西衣笠山のふもとの北山の地を承久二年(1220)に手に入れていることから彼が右大将に任じられた承久元年(1219)十一月頃に北山第の営作と氏寺の建立を思い立ったとしている(注4)。当時の状況については『増鏡』五,i内野の雪jに詳しく,西国寺の創建期の規模と様子について詳述している。本文等の一々は省略するが,西国寺には本堂をはじめとして,普積院・功徳、蔵院・妙音堂・不動堂・五大堂・成就心院・法水院・化水院・無量光院などの堂宇があり,r増鏡』の筆者が記すところには法成寺に及ぶものであったという。妙音堂の造立年代については不明であるが,西国寺家にとって琵琶伝業にかかわる重要な堂宇であることを勘案すればもっとも早くつくられた可能性が考えられ,260-

元のページ  ../index.html#270

このブックを見る