よって元仁元年頃には完成していたものと考えて良いであろう。ところで現在京都旧皇居内に西国寺邸の旧地とされる地に白雲神社なる神社があるが,本社は妙音天像を御神体として杷っており,本像が西園寺妙音堂伝来の妙音天像ではないかとされてきた。ただ,現在御神体のためこれまでその姿を拝したものはほとんどいなかったものの,仁和寺本を紹介した島田修二郎氏は本像を実見した数少ない一人で,妙音天像について鎌倉時代の作とみなしており,仁和寺本と像容が一致するので西国寺妙音堂本尊の可能性を示唆している(注5)。本像が杷られている白雲神社は西国寺旧邸に建つ神社であり,西国かほる氏によれば神社となる前は西国寺邸の仏堂の本尊として記られ,明和六年(1769)新しい屋敷地に堂舎を建立するまで,本像は寺町西園寺近隣の赤八幡京極寺にしばらく安置されていた事がわかる(注6)。ただし,高橋秀樹氏の指摘通り,赤八幡京極寺は応仁の乱以後この地に建てられたのであるから,北山に創建された西国寺が退転後まもなくのことは不明である。本像は島田氏の指摘の通り,二膏像で琵琶を弾ずるようにし,頭を少し右に傾け,上半身裸形で条吊を着け梧を履いて左足をやや立てて坐す仁和寺本にほぼ一致することがわかった。またその構造等は,像高61.2センチになる木彫像で,頭鉢幹部をヒノキの一材より彫出し,両耳後の線より前後に割矧ぐ構造になり,頭部をやや怖かせ左に傾げるように工夫されている。保存状態が非常に良好で,宝冠・琵琶・一部の指先などに後補があるものの,彫眼の眼の彩色や衣の文様など表面の彩色も当初のまま残る。鋭く的確な写実表現等から鎌倉時代慶派仏師の作とみられ,しかも切れ長の眼に厳しい面貌表現等は快慶の作の可能性が高い。快慶作品のなかでも明瞭な耳輪の彫りや耳珠などの耳の彫法等から快慶初期の像になろうか。したがって本像は仁和寺本に一致することや鎌倉前期にさかのぼる作例であることから西園寺妙音堂の本尊像であることがみなすことができょう。なお『教言卿記』応永十二年(1405)六月十七日条には西国寺の妙音天は妙音院師長が尾張国より携行した木像であると記されている。この文章は山科教言が西国寺妙音天について説話的に由来を申した箇所であるためこの内容をそのまま信じることはできないが,先述のように西国寺の土地は尾張国松枝庄と交換するなどほかにも尾張固との関連を示す史料は多いのであるいは師長や尾張固との何らかの結びつきがある-261-
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