鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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かもしれない(注7)。いずれにしても『文机談』には妙音院の本尊は師長の御影等ともに師長室の養女粟田口禅尼の手を経て,藤原公経に伝えられたことが記されているから師長の妙音天像を西園寺妙音堂に杷ったことは確かであろう。四,西国寺妙音堂像と二腎琵琶弾奏像西園寺妙音堂の本尊の意義についてはこれまで,芸能や文学,国史のうえから盛んに研究されてきた。周知のように詩歌管弦は当時の宮廷の必要な常識で,詩歌についてはよく知られているものの管弦,とくに平安時代後期から鎌倉時代中期にかけては琵琶の習得は重要な要件であった。琵琶の曲,なかでも「啄木jは最秘曲とされ,それを習得することは秘曲伝授と称され,のちには密教の濯頂になぞ、られ,秘曲濯頂として神秘化・秘密化されていった。西国寺公経は藤原師長より妙音天ならぴに琵琶の伝業を受けた。これによって公経は宮廷における地位を確立するなど,琵琶の秘曲の習得は当時の重要な要件であった。そして琵琶の妙音院流が西国寺家へと引き継がれ,よって西園寺家が妙音天像を中心とした琵琶の伝授儀礼を確立し,宮廷における地位も確立したものと考えられている(注8)。そして琵琶の秘曲の伝授は西園寺妙音堂で行われ,しかも声明や妙音講などの仏教的な儀礼もおこなわれていたことが知られている(注9)。こうした堂宇の本尊として妙音天が造られたものと思われるが,これはこれまでの入管像のような弁才天ではなく,あらたに創案されたものと考えられる。松島健氏は仁和寺本にある妙音天像について「こうした菩薩裸形の姿が,音楽の霊性を重視した密教系二管弁才天即ち妙音天の根本的な形相かと思えるJと二管琵琶弁才天像の根本形を西園寺妙音堂本尊に求めている(注10)。また根立氏が指摘するようにi(琵琶の)第一人者である師長が念持仏とし,また琵琶の家としても名高い西園寺家が杷るものとしても,あらゆる仏教の諸尊の中で,密教の琵琶弾奏の弁才天こそが最もふさわしいJ(注1)と思われるが,しかも本像の制作には妙音院と称された師長の意図が深く関わっていたものと考えられ,師長はことさらに音楽神を意識した名称の尊像としての妙音天を意識し,これまでの八骨弁才天像ではなく,音楽神として現図胎蔵蔓茶羅中の弁才天像を採用したことは容易に想像がつく。なお,こうした上半身裸形のいわば妙音天型の弁才天はそれを写そうとしたもの以外は流行らなかった。なぜなら琵琶の秘曲伝授がのちには濯頂と称されるように一部-262-

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