注の秘密的な要素をもつため,忠実な形姿は知られなったものと思われる。しかも皇族・貴族のみで知られるだけのものであったため,江ノ島神社像や鶴岡八幡宮像にみるようにすでに中世においても妙音院師長が取り入れた妙音天像の形姿はそれが寺院における修法とは異なるため,密教図像のように厳密に形状を守ることはなく,あるいは必要もなかったものと想像される。つまり三管で琵琶を弾ずる形姿のみがこの音楽神としての形状になったのであろう。また,裸形像でも江ノ島神社像や鶴岡八幡宮像などのように,やはり伝統的な女神像的な形姿を採用したのであろう。さらには鎌倉時代後期以降,画像の静嘉堂本や高貴寺像のように上半身裸形とはせず,伝統的な櫨檎衣着用の女神像形式にしたのではなかろうか。ただ松島健氏によれば高貴寺像が上半身に衣を着るのは「音楽神としての霊性に加えて護法神的性格をも強調する為に創案されたものではないかJと推論しているが,あるいは二膏で櫨檎衣等を着した弁才天像は図像的には新出の二管琵琶弾奏の形姿をとるものの音楽神としての面がその発生に大きく関わっているが,修法上の尊像としてこれまでの『金光明最勝王経』に説くような護法尊像として面が必要であるため,それまでの女神像的な髪型と衣を合わせたのではないかと考えられる。おわりに二骨琵琶弾奏弁才天像はこのように音楽神として琵琶の伝授の本尊としてそれまでの八皆像ではなく,新たな図像によってつくられたものと思われる。宮廷の琵琶習得が盛んになることによって妙音天も盛んに信仰されるようになり,それによって二腎の琵琶弾奏弁才天像も多く造られるようになった。しかし弁才天像はその後妙音天型の像があまり採用されず,それまでの櫨楢衣着用の女神像がわが国の趣向にも合ったため,これらの像が多く造られるようになった。しかし,妙音天像の成立によって弁才天像の信仰が盛んになった背景や図像選択にこの二腎琵琶弾奏像が大きく影響したことは間違いない。(1) 弁才天の作例や問題点等の整理は以下の文献が詳細で的確にまとまっている。根立研介『吉祥天・弁才天j(日本の美術三七一,至文堂,1992年)(2) 注(1)同書-263-
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