鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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つ山po oo 接之良因実,右筆華厳宗末葉権大僧都宗性J(傍点筆者)と記すことから,岡本は貞慶作文集として,宗性が寛元元年夏頃に編纂した『祖師上人御作抄Jを,寛元4年4月に改めて『讃悌乗抄』に増補再編纂したとみられる。さて,本研究では以上の検討結果から,r讃f弗乗抄(紗).1について,収録される全ての作文が貞慶起草であり宗性が貞慶作文集として寛元元年夏頃に編纂した『祖師上人御作抄』をもとに,寛元4年春頃に増補再編纂し,金沢文庫や東寺へとその写本が伝えられたと考えられる。なおその詳細については貞慶の造寺・造仏を考える上で,問題が多岐に渡るため別稿に譲りたいが,本研究では『讃備乗抄(紗).1に収録される全ての作文が,貞慶起草とみなされることによりより一層明確になった貞慶と重源の関係に注目したい(本稿末[貞慶・重源関係年表]参照)。二笠置寺造営と重源貞慶と重源の密接な関係を考えるとき,まず検討されることに,貞慶の本拠地であった笠置寺造営への重源の関与がある。重源の造寺・造仏をまとめた東京大学史料編纂所蔵『南無阿弥陀悌作善集.1(以下『作善集.1)によれば,笠置寺関係として笠置般若蓋寺奉施入唐本大般若一部鐘一口白檀韓迦像ー鉢聖武天皇御本尊也とある。このうち「鐘一口」は,建久7年(1196)8月銘の鐘が現存する〔図1J。その鐘は下辺を六案形とする独特の形で,重源の宋風受容を示す「六葉鐘」として,東大寺勧進所のものと共に挙げられる。また「白檀釈迦像一幹聖武天皇御本尊也」は,建久6年11月に貞慶が建立した笠置寺般若台六角堂の六角経台の中尊として安置されたことが明らかにされている(注7)。ここでは,残る「唐本大般若一部Jについて検討したい。笠置寺の大般若経には,貞慶が養和2年(1182)に着手,建久3年11月に功を終え,同6年に般若台六角堂に納置したものがある。建久3年の書写完了は,貞慶の笠置隠遁の契機になったとされるが,いずれにせよ「唐本」はこれに当たらない。そこで改めて注目されるのが,建久9年11月に貞慶が建立し,弥勤磨崖仏と共に笠置寺の中心であった十三重塔〔図2J に納置した,もう一部の「摺写唐本大般若一部六百巻Jn讃悌乗抄J第八所収「笠置

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