鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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37cm前後)は一致する。笠置寺十三重塔建立をめぐる貞慶と重源の密接な関係や,海保2年の海住山寺五重塔へと継承・模刻された蓋然性はかなり濃い。寺十三重塔供養文J)である。この大般若経については,1訪異域之煙波早写六百帳華文J(同供養文)1訪得異朝般若真文J(W讃悌乗抄J第八所収「笠置寺十三重塔扉冗願文J)とされ,これが重源による施入の「唐本大般若一部jとみなしでほぼ間違いなく,1摺写唐本」とは宋版のことと考えられる。一方,これより約二年前,すでに貞慶は建久7年12月日「沙門貞慶笠置寺法華八講勧進状J(r弥勤如来感応抄J第一所収)で,十三重塔を建立し,そこに舎利や大般若経などを納め「霊鷲山般若塔Jに擬することを発願している。したがって,重源の宋版大般若経施入は,この前後,貞慶の要請に答えるものだった。重源は,貞慶により建立された笠置寺の中心堂宇である,般若台六角堂の中尊釈迦知来像と,十三重塔納置の大般若経,加えて党鐘をも施入しているのである。長文の『作善集』のごく短い記事ではあるが,そこからは釈迦・舎利信仰をめぐる両者の並々ならぬ関係がみてとれる。なお,この関係で見逃せない作品として,鎌倉時代前期の海住山寺四天王像〔図3) がある。本像は,建久7年の仏師慶派一門による東大寺大仏殿再興像を範とした,近年注目される「大仏殿様jの作例に挙げられる。伝来については,水野敬三郎氏が,同寺五重塔初重内陣の彩色文様との共通性から,全くの想像としながらも,その初重内陣安置の可能性を呈示した(注8)。海住山寺五重塔は貞慶晩年に企てられ,一周忌の建保2年(1214)に完成し,初重内障には貞慶所縁の舎利が納められたとされる。また,現在残る初重内陣扉絵は,記録から知られる,笠置寺般若台六角堂の六角経台扉絵,同寺十三重塔母屋柱絵や扉絵を伝写した可能性が指摘される(注9)。ここで笠置寺十三重塔の安置仏に注目すると,そこには「彩色一探手半四天王像各一体J(1笠置寺十三重塔供養文J)があった。この記録と,海住山寺四天王像の仕上げと像高(約住山寺五重塔扉絵の笠置寺十三重塔母屋柱絵や扉絵との模写関係が認められるのならば,大仏殿様四天王像が建久7年の東大寺大仏殿から,同9年の笠置寺十三重塔,建三峰定寺釈迦如来立像の周辺次に,貞慶と重源の釈迦・舎利信仰と宋風受容を考えるとき,重要な作品として峰定寺釈迦知来立像がある〔図4)。本像は,宋画によると思われる著しく波状にうねる

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