表3永敬本が光琳本に先行する可能性が高いと考えられるが,二作品の制作時期が近いことに疑いはない。畠山匠作亭詩歌については元禄四年に版本「鴫の羽撞」が刊行され,そこで絵画化された図が広く知られていたはずだが,永敬本も光琳本も「鴫の羽接」の図とは一致しない。つまり永敬と光琳は,I鴫の羽撞」の図に束縛されず,畠山匠作亭詩歌の絵画化をともに略筆で行った。そして,その詞書を担当した公家の一部が一致するのである。四十一歳で亡くなったためか,確認しえる永敬の作品数は少ない。しかし,今後,出現が期待される永敬作品の中には,光琳あるいは乾山の作品との関係を具体的に教えてくれるものが見つかる可能性はある。光琳の法橋叙任は元禄十四年二月だった。法橋叙任以前の作品としては,十二カ月歌意図扉風,宗祇像,牡丹花肖柏図,蹴鞠布袋図,秋草図扉風,伊勢物語八つ橋図のような僅かな作例が知られるのみであり,知られる光琳画の多くは法橋叙任以降のものである。そして,光琳初期の代表作,燕子花園扉風(根津美術館)は法橋叙任以降,元禄十五年七月までの聞に描かれたと考えられている(注24)。一方,永敬が没したのは元禄十五年九月十八日だ、った。ということは,短期間ながら二人の作画活動時期は重なる。また,燕子花図扉風の完成時に永敬は存命していて,その燕子花図扉風が伝わったのは永敬,光琳との接点でもある西本願寺だ、った。この点にはもっと注意してよいと思う。秋草図扉風〔図1Jは琳派との関係が指摘されている作品だけに,燕子花園扉風との比較材料となるはずである。光琳が多くの作品を描いていた時,既に永敬は鬼籍の人となっていたため,今まで,1月一条冬経2月中御門資!照3月久我通誠4月中院通茂5月難波宗量6月清閑寺!照定7月庭回重俊8月中院通賜9月甘露寺方正10月清水谷実業11月櫛笥隆慶12月鷹司兼!照永敬本光琳本鷹司兼!開(左大臣)中山篤親(大納言)j青閑寺照定(大納言)中院通茂(大納言)徳大寺公全(大納言)東園基量(大納言)今城定経(中納言)中院通弟(中納言)裏松意光(中納言)風早実種(中納言)万里小路淳房(大納言)近衛家!開(右大臣)18
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