鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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衣紋の縁,腹前に内衣の結び目を表す着衣形式,目尻のつり上がった眼,撫で肩の体つき,爪を伸ばした指先などと,全身金泥塗りの仕上げに,顕著な宋風受容を示す鎌倉時代初期の彫刻作品として名高い(注10)。また本像には,水晶五輪塔・同外箱・宝匿印陀羅尼経・解深密経・党文陀羅尼・結縁文・樹葉など多くの納入品がある。そして,それら納入品には正治元年(1199)の年記と,貞慶やその弟子覚遍・観心の名前があり,造像に貞慶一派が深く関与したことが知られる。この他,銘文中に蓮阿弥陀仏の他,帰・証・多・真・見などの重源と関係が深い阿弥陀名号を持つ者が多く見られ,このうち蓮・真・見の三阿弥陀名号が,他の重源関係の史料に度々見出されることが石田尚豊氏により指摘される(注11)。以上のことから,重源の名前は無いが,本像の造像背景に貞慶と重源の関係が反映されている可能性は高い。そこで改めて注目されるのが,多くの結縁文が記される六枚の樹葉である〔図5J。同樹葉は,特徴からシナノキであることがわかる(注12)。我が国では,熱帯産のボダイジ、ユは自生できず,樹葉の形が似るシナノキを以て菩提樹とする。したがって納入品の樹葉は,菩提樹葉とみなされる。なお,菩提樹は舎利と同体とも言え(注13),その納入は舎利納入と同義で「真身」に擬すものであったと思われる(注14)。一方,r作善集』には鯖木跡奉殖井樹とあり,r元亨釈書J巻第二・建仁寺栄西伝には,二度目の渡宋中の栄西が,建久元年(1190)天台山から菩提樹を宋船に付して我が国に初めて請来し,筑紫香椎宮に移植,さらに同6年春に東大寺に移植したという。現在でも大仏殿前西側に,後背の菩提樹(シナノキ)が繁茂する(注15)。重源と栄西の関係は深く,重源は仁安2年(1167)に入宋,翌年同地で栄西と出会い,ともに天台山に登り,阿育王山の舎利を拝して,秋9月に帰朝している。また東大寺大勧進職は重源没後栄西に譲られる。これらのことから,栄西請来の菩提樹を,重源が東大寺大仏殿前の鯖木跡に移植したとみられる。建久6年3月には,後鳥羽天皇の行幸を仰ぎ,源頼朝も随従して大仏殿供養が盛大に行われており,同年春の大仏殿前への菩提樹移植は,重源の演出といえよう。以上のことから,阿弥陀名号の銘文により重源と関係が深い峰定寺釈迦知来立像に納入された,正治元年銘の菩提樹葉は,建久6年春に東大寺大仏殿前へ移植された菩提樹から採取されたものとみられる。また,峰定寺像は全身金泥塗り,像高は50.6cm270

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