で約一尺六すとなるが,貞慶は建久9年(1198)の笠置寺十三重塔中尊に「皆金色ー尺六す釈迦如来像一体」を安置し(1笠置寺十三重塔供養文J),承元3年(1209)12月にも「金色ー尺六寸釈迦知来像」の造立に携わっているo貞慶抄物』所収「金色一尺六す釈迦如来像造立願文J)。ここで峰定寺像造立が笠置寺十三重塔像造立の翌年であること,重源の同塔への宋版大般若経の施入,同塔四天王像の大仏殿様であった濃い蓋然性,峰定寺像への東大寺大仏殿前移植の菩提樹葉納入などを考慮すれば,これらの釈迦知来像が,重源周辺から貞慶一派へもたらされた,宋画による同図像によった可能性も高いのではないだろうか。四十三重塔建立とその起源貞慶と重源の関係を,釈迦・舎利信仰と宋風受容の側面からみてきたが,その中心に位置したのは,宋版大般若経の施入や,海住山寺四天王像と「彩色一探手半四天王重塔建立をめぐる問題が大きい。ここでは釈迦・舎利信仰の象徴である十三重塔の造塔自体に,両者の密接な関係と,宋風受容があったことを明らかにしたい。まず,年代順に,貞慶周辺の主な造塔事業を概観してみたい(本稿末年表参照)。① 建久5年(1194)8月,菩提山正暦寺に十三重塔を建立し,百余粒の舎利安置が企てられる。これは九条兼実の異母弟で,興福寺別当を務めた菩提山僧正信円による発願とみられるが,この勧進状を貞慶が起草し,また重源が結縁をしている。② 建久7年12月頃,貞慶は笠置寺に十三重塔を建立することを発願し,同9年11月にその供養を遂げる。重源は「唐本大般若一部」を施入する。③ 建久8年頃に貞慶が勧進状を起草し,その勧進活動もした興福寺五重塔再建に,重源は心柱三本を施入している。④ 建仁2年(1202)貞慶は「随願寺十三重塔勧進状J(随願寺はかつて浄瑠璃寺近く東小田原に所在)を起草する。なお重源は東小田原北萱堂に厨子仏一脚を安置している(r作善集D。⑤ 同じく建仁2年前後,貞慶は「新薬師寺十三重石塔供養文jを起草する。⑥ 元久元年(1204)4月,貞慶は「大安寺七重塔修造勧進状」を起草する。なお,正治元年(1199)にも貞慶は「大安寺党鐘勧進状」を起草し,これに重源も結縁している。像J,峰定寺釈迦知来立像と「皆金色ー尺六寸釈迦知来像」との関係など,笠置寺十三-271-
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