鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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以上,貞慶の関与した造塔事業のうち主なものを挙げたが,注目されるのは,興福寺五重塔や大安寺七重塔などの再建を除くと,菩提山正暦寺・笠置寺・随願寺・新薬師寺など,十三重塔建立に多くかかわったことである。この後にも,鎌倉時代にかけて興福寺田恩院や長谷寺,高山寺などに木造十三重塔が建立され,後期には叡尊を中心とする真言律宗で,石造十三重塔が多数建立される。平安末期以前,我が国では三重・五重塔が主流で,十三重塔は殆どその例をみない(注16)。したがって十三重塔は,鎌倉時代初期に貞慶周辺で採り入れられ,南都を中心に広まったと解釈されよう。ここで,重要作品とみられるのが,重源によって建久8年(1197)11月に鋳造された周防阿弥陀寺の鉄宝塔である〔図6)。この鉄宝塔は,その銘文に「多賓十三輪銭塔Jとあり,現状では寛文2年(1662)に後補された通例の九輪を屋根に頂くが,本来は例を見ない十三輪であった。また銘文の冒頭には「浬繋経日悌塔十三重,律日相輪十三,惇云金盤十三jとあり,造塔に当たっては十三重が重要なことが第一に説かれ,さらに銘文中に「右嘗山者,是大和尚位南元阿嫡陀悌,宋朝此域名地霊所造寺起塔其一也jとあって,造塔の起源が宋にあると明らかされている。この「宋朝」の「多賓十三輪銀塔」を考えるとき,北宋の都であった河南省・開封において,現在でも象徴的存在である祐国寺十三重塔〔図7)の存在は見逃せない。なぜなら,同塔は俗称を「鉄塔」と言い,その表面に鉄紬色の埠を貼り付ける。また「十三重鉄塔Jの形式は重視されたらしく,実際に鉄で鋳造された宋代の十三重塔として,湖北省・当陽・玉泉寺塔〔図8),江蘇省・鎮江・甘露寺塔などが挙げられる。以上のことから,三度も入宋したとされる重源は,このような宋の「名地霊所造寺起塔」を目の当たりにし,三重・五重が主流の我が国の塔に対して,より正統的な塔形式として,十三重や鉄塔へのこだわりを示したのだろう。一方,貞慶も十三重塔の起源を「訪清涼山之風儀,欲追賓池院之高齢J(1菩提山寺十三重塔勧進状J)として,大陸の清涼山宝池院に求めている(注17)。以上のことから十三重塔の造塔自体に,貞慶と重源の密接な関係と,釈迦・舎利信仰による宋風受容があったといえる。また,菩提山正暦寺,笠置寺,阿弥陀寺の十三重塔や十三輪鉄塔の発願・建立供養が,建久5年から同9年に集中していることは,信円,貞慶,重源の間で,十三重塔建立を伴う舎利信仰の高揚が窺える。この事に関連して九条兼実,貞慶,重源,信円,遅れて明恵といった人々の間で,舎利そのものについても「西龍(隆)寺舎利」なるものが,共有されていたことも興味深い(注18)。-272-

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