土口。南小五口三口注(1) r校刊美術史料寺院編下巻』所収,中央公論美術出版社,昭和51年(2) 永井義憲・清水宥聖編『安居院唱導集上巻J所収,角川書庖,昭和47年(3) 牧野和夫1r讃悌乗抄Jをめぐる新出資料一七寺蔵『大乗毘沙門功徳、経』と東寺観(4)櫛田良洪氏(1金沢文庫蔵安居院流の唱導書についてJr日本仏教史学j4,昭(5) r讃悌乗抄』第八所に再編されたものと,東大寺蔵『太上法皇御受戒記』後半に組朝J1我園J1皇洲」から見た「異朝J(1同冗願文J),1大日本園J1神園J1本朝Jから見た「異域J(1笠置寺十三重塔供養文J)であり,1大唐」や「大宋Jで、はない。結局,なぜなら,塔は「十三重J,舎利は「西龍寺舎利jという,舎利信仰による例えば一つの結社的存在も想定されるからである。最後に,貞慶のいわゆる“宋風"受容の本質を考え,今後の展望の意味も含めて結語にかえたい。貞慶周辺においては,十三重塔建立,1摺写唐本大般若一部六百巻J(r作善集j)の請来,宋画の図像によっただろう峰定寺釈迦如来立像と,その納入品である菩提樹葉などに,顕著な宋風受容が指摘できる。そして,その動機は,宋版とみられる「摺写唐本大般若」を指して「般若真文J(1笠置寺十三重塔扉冗願文J)と言うように,1真」を求めてのことであった。したがって,貞慶にとって大陸はあくまでも,1神園J1吾貞慶の宋風受容とは,釈迦信仰の「真jを求めることにあった。これに関連して,舎利や菩提樹葉を納入し「真身」に擬した峰定寺像の図像を,重源が請来し,皆金色釈迦如来像の典拠とした「優填王赤栴檀像第二轄画像J(r作善集j)に求める推測(注19)も,あながち否定できないように思う。但し一方で,重源は「十三輪銭賓塔」を鋳造したが,貞慶の建立した笠置寺十三重塔は,笠置憂茶羅図〔図2Jに見るように,それは正しく十三重でも,従来の建築様式による木造和様塔と思われる。宋風受容も貞慶と重源では,自ずとそこに温度差もあったのだろう。(平成13年5月稿了)智院蔵『貞慶抄物』他-J r金沢文庫研究j296,平成8年和17年)・前掲(2)永井・清水書は安居院流唱導書説。牧野和夫氏(r中世の説話と学問』和泉書院,平成3年)は貞慶周辺撰述説。-273-
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