(6)宮島新一「釈迦追慕と弥勅信仰Jr図説日本の仏教第四巻鎌倉仏教』新潮社,(7) 石田尚豊「重源の阿弥陀名号Jr大和文化研究.140,昭和36年(8)水野敬三郎「四天王立像Jr大和古寺大観第五巻海住山寺岩船寺浄瑠璃(9)福山敏男「海住山寺五重塔Jr美術研究.1202,昭和34年。。水野敬三郎「宋代美術と鎌倉彫刻Jr園華.11000,昭和52年(13) I蓋菩提樹者如来成道之霊木也,世尊滅後一百年,獅子園王受悌記,共f弗舎利得南(14) I作二尺五寸釈迦文像,安舎利像中,蓋擬真身也J(r元亨釈書』巻第十七・江親通み込まれたものがある(おそらく錯簡か)。昭和63年寺』岩波書庖,昭和53年制前掲(7)石田論文ω シナノキについては,東京大学大学院・理学系研究科附属植物園・育成部主任・下園文雄先生に多くのご教示を頂いた。枝盛金聾移植J(r元亨釈書』巻第二・建仁寺栄西伝)伝)同小林剛『俊乗房重源の研究』有隣堂,昭和46年同平安時代以前の例として奈良時代の塔ノ森六角十三重塔と鹿谷寺跡十三重塔ぐらいしかなく,於美阿志神社十三重塔は平安時代後期とされるが,鎌倉時代初期の可能性もある。(的現存する木造十三重塔唯一の例として,談山神社十三重塔(享禄5年・1532再建,伝説では天武7年・678創建)がある。『多武峰略記』には,同塔も「件塔移清涼山賓池院塔」とあり,貞慶の十三重塔受容との関係が問題となる。今後の検討課題としたい。但し,本研究で述べたように,貞慶や重源周辺の十三重塔建立の起源が,同時代の宋の影響下にあることは疑いない。同九条兼実から貞慶,貞慶から明恵への西龍寺舎利伝来は『春日明神託宣記』を参照。重源の西龍寺舎利所持は『作善集J東大寺別所条。信円は,建久7年造立の興福寺東金堂維摩居士像に,西隆寺舎利を奉龍している。なお,r春日明神託宣言己』の記事については五島美術館・谷口耕生氏のご教示による。同松浦正昭「釈迦如来立像Jr東アジアの仏たちJ作品解説所収,平成8年-274-
元のページ ../index.html#284