7王(1) 土居次義『山楽と山雪』桑名文星堂,1943年(2) 土居次義「実相院の狩野永敬jr美と工芸.1159, 1970年(3) I狩野平四郎〔縫殿助子〕同氏数馬〔同猶子〕来自画扇子査本宛進上也始而御前江(4) 永敬が求馬と称していたことは,朝鮮通信使扉風(ハーバード大学サックラ一美(5) 拙稿「永納作品の制作年代jr塵界.111, 1999年(6) I依召絵師狩野永納同縫殿助来是今度女二宮様新作之御所御絵之義仰被付也j(7) I狩野縫殿助来西本願寺大坂御堂絵之由七八ヶ年巳前此御所九条様奉願候処両御(8) 例えば,元禄十一年八月五日条「自今日縫殿芳子二人来宿j,同六日条「縫殿芳子(9) 川本桂子「九条家伝来の車争い図をめぐってーその制作事情と解釈を中心に-j光琳と永敬との関係が論じられたことは殆どなかった。光琳関係資料に永敬が殆ど登場しないのも,ここに大きな原因があったように思う。光琳についてはその師と考えられてきた山本素軒との関係が専ら注目されてきた(注25)。しかし,今後は光琳と永敬の関係が注目されるべきである。永敬の作品およびその人脈を研究することにより,この時期の絵画制作の状況のより深い理解に至ることができると考える。出也jとある。この狩野平四郎〔縫殿助子〕が永敬だろう。なお,同氏数馬〔同猶子〕とは永敬の従兄弟・狩野常貞のこと。永納の弟・乗信(造酒助)は万治元年(1658)に子・数馬を残し,二十二歳で早世している。永納は弟の子・数馬を実子とともに育てていたようだ。術館)の款記から分かる。これは天和二年(1682)の朝鮮通信使来日を描いた作品と思われるが,六曲一双扉風の右隻に「狩野求馬永敬図之j,左隻に「狩野求馬永敬仲簡筆jの款がある。なお,この作品の存在は奥平俊六氏,鬼原俊枚氏に教えていただいた。感謝申しあげたい。所御願者今日画絵之由被申付難有本為御右御札参上イ士之旨也J。なお,I大坂津村別院記j(r大谷本願寺通記』巻十)には,元禄六年正月に津村御坊の再興が議され,元禄十二年十月二十日に再建慶讃と記録される。又二人来今夜縫殿井三十子二人帰京J『日本絵画史の研究』吉川弘文館,1989年同菊水図)弄風,十二カ月歌意図扉風は,r狩野永納展図録』兵庫県立歴史博物館,-19-
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