鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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2.ルドヴイコとパルパラの結婚北壁の「宮廷」場面〔図2)は,ミラノ公フランチェスコ・スフォルツアの病状悪化を伝え,またそれに伴いマントヴァ侯へ傭兵隊長としての招轄を要請する,ミラノ公妃ピアンカ・マリア・ヴイスコンテイの1462年l月1日付の書簡が到着する出来事を物語る。と同時にこの場面は,ゴンザーガ家の一種の集団肖像画の様相を呈している。閉ざされた中庭のような親密な空間にゴンザーガ一族とその側近のみが集合している。この私的な宮廷の集いの中心はルドヴイコとその妻パルパラであり,その子供達が二人を取り囲む。ルドヴイコにとってこの一族の団結場面は,神聖ローマ皇帝の血を引くパルパラとの結婚によって自らの侯爵位という世俗権力が確立されたことを誇示するものであり,また子供達によってその支配権が継承されてゆくことを宣言するものである。ゴンザーガ家にとって侯爵位の補強という点で決定的役割を果たしたのがパルパラとの結婚であったことは,よく知られている。そもそも1328年よりゴンザーガ家はマントヴァ領主であったが,これは他のイタリア領主同様,神聖ローマ帝国からの認証を得ることで支配権の正当化をはかるというものであった。1432年にはルドヴイコの父ジャンフランチェスコ・ゴンザーガが,ょうやく皇帝側と金額の面で折り合うことで,侯爵位を入手することになった。1433年皇帝自らがマントヴァに来てジャンフランチェスコに爵位を授与し,その際ルドヴィコとパルパラの結婚が告知された。この結婚については通常妻の側が用意する持参金はなく,反対にゴンザーガ家が大金を積んだことが知られる(注5)。パルパラ・フォン・ブランデンブルクは,神聖ローマ帝国ホーエンツォレルン家フリ}ドリヒl世の孫娘,同家ヨハネスの娘であり,さらに時の皇帝ルクセンブルク家ジギスムントの姪であった。新たに侯爵位を獲得したゴンザーガ家にとって,パルパラとの結婚は政権上大変重要な意義を持っていた。イタリアの小国に過ぎないマントヴァにとって,パルパラを通じた神聖ローマ帝国との縁戚関係は,侯爵位という世俗権力を裏書きし,強力に保証するものとして捉えられたからである。一方西壁の「避遁J場面〔図3)は,先の書簡を受けミラノへ旅立ったルドヴイコが国境付近で新枢機卿フランチェスコに出会うという出来事を物語る。戸外の公的空間には一族の男性のみが集結する。ここでは正義で政治的権力を司るルドヴイコと信仰で宗教的権力を司るフランチェスコが場面の中心人物である。フランチェスコの枢-281-

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