鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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(11) なお,秋草図扉風の右隻に捺される「狩埜J(白文長方印)だが,これは父・永納(12) 1師狩野永敬稿、得其家法後仕仁和寺法親王材、高田豊前大目j白3)山根有三「光琳芸術の特質とその作風展開の意義Jr光琳研究二J中央公論美術1999年,で紹介した作品。1960年1007, 1977年が使っていた印でもある。永納の天神図(北野天満宮)詩仙堂三十六歌仙図巻(ニューヨーク・パブリックライブラリー)などでこの印が確認できる。永敬は印も永納から受け継いでいたのである。同山本ゆかり「月岡雪鼎・磯田湖龍斎への僧位叙任について一『御室御記』に関する報告J r浮世絵芸術j132, 1999年同脇坂淳118世紀初頭の狩野派と永伯の動向Jr京都教育大学紀要j90, 1997年岡山根有三「二候綱平公記抄録Jr大和文華.133, 1960年同脇坂淳「京狩野家の研究京狩野家資料Jr大阪市立美術館紀要j9, 1989年同神通せつ子「光琳関係資料二候家内々御番所日次抄録Jr大和文華j33, 同「深省縫殿依召来於御前御酒被下之J同福井利吉郎「光琳の夢Jr美術写真画報j1 -2, 1920年側「三宝院日次記J(宮内庁書陵部)には延宝三年(1675)七月から十月に光琳,乾山が醍醐寺三宝院高賢のもとに出入りしたことが記録されている。高賢のもとには永敬の父・永納も出入りしていたので,今後は永納と光琳,乾山の関係も考えてゆく必要がある。拙稿「三宝院高賢と光琳Jr国華J掲載予定,を参照されたい。凶次の作品調書との筆跡比較による。狩野探幽「新三十六歌仙図帖J(東京国立博物館),狩野常信「和歌十体J,土佐光起「大寺縁起絵巻J(開口神社),土佐光成[十二首和歌扉風J,清原雪信「源氏物語図帖J(徳川美術館),清原雪信「女房三十六人歌合J,住吉具慶「三十六歌仙図帖J(パーク財団),住吉具慶・狩野秀信「時代不同歌合J(静嘉堂文庫美術館)倒西本周子「尾形光琳筆十二カ月歌意図扉風について(上)(下)Jr国華j1006・出版,1997年仰山根有三「尾形光琳筆燕子花図についてJr国華j1068, 1984年同福井利吉郎「光琳の師山本素軒Jr芸文j7 -6, 1916年-20-

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