鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ラリーの2幅に記号Fを付して示した。なお,本表は現研究段階に於ける作業資料としての暫定的なものであり,未定稿とも言うべきものである。少なからぬ点に於いて,改善される余地がある。例えば,r考古画譜』に紹介される,東福寺本に関する史料「住吉家事本奥書云,此五百羅漢五十幅之絵,…其中欠弐幅者百余霜,一衆以為憾而己,此趣達人皇百八代後陽成院聖徳,則即降院宣於画工狩野右近将監藤原孝信,令図此二幅,…元和第六日620]庚申臓月下構,東福住持比正集雲史守藤記鷲J[r訂正増補考古画譜上巻.1(黒川真道編『黒川真頼全集第一』図書刊行会1910年)巻五,p.183] の記事が史実であるとするならば,孝信の手になる2幅が未だ弁別されず,本絵の中に含まれているのかも知れない。さらに,後述するように,東福寺本と大徳寺本との関係は,必ずしも一対ーの関係ではない。大徳寺本の内の異なる画幅の図様が51かれて,東福寺本の一図を形成している場合がある。本表中では,この点に関する情報を盛り込んでいないが,さらに,作品の精査を進めて,その結果を記した新稿を設けたいと考えている。東福寺所蔵明兆筆五百羅漢図下絵と称される作品については,『丹青若木集.1I兆殿司」の項,「彼五百羅漢之内二幅散失,近比後陽成院手身令画加之,工巧市清趣不少,皆貴敬,明兆之有試図納子寺,幸以是備叡覧伯任旧図令図云々J[坂崎坦編『日本絵画論大また,r本朝画史J巻第三「僧明兆」の項,「草本亦今在常楽庵J[r日本絵画論大系II.I p.391] 或いは,r増訂古画備考』十七,名画五「吉山明兆和尚」の項に引く,「東福寺什物,天保七年[1836]口月,開帳ノ節,抄録」として,「一兆殿司筆大浬繋像…一同五百羅漢五十,一同下絵五十j[朝岡興貞著・太田謹増訂『増訂古画備考』吉川弘文館,1905年,巻中p.570] 等と,江戸時代の史料中から,これを「試図JI草本JI下絵Jと称し,伝えている。美術史では,田中一松氏が「明兆筆五百羅漢図根津美術館蔵J(r国華.18531963年)の文中で,Iその時の草稿下絵と伝えるものがいまも東福寺にのこっているjと紹介さ系II.I名著普及会,1980年,p.335] -307

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