れたのが唱矢である。作風の上では,羅漢の衣紋を表す描線等に暢達した墨線を用いる箇所もあり,明兆筆との伝承も,そのまま受け入れられてきた感がある。けれども,見て来た通り,この紙本白描画が下絵であるとするのは,伝承に依るのみの言説に過ぎない。紙本画の一部には「朱JI白六j等の色註が施されており,粉本的な用途に用いられたかとも想像されている。50幅の内に5幅有る,淡彩画に於ける彩色については,後世に賦されたものとの印象も受ける。この紙本画は,絹本の本絵を制作するに当たり,準備された下絵なのか,或いは,既に成った絹本の本絵を写し取ったものなのか。これを批判的に検証した試しはない。さらに,作品そのものについて具体的に考証する事が必要である。絹本画と紙本画とで,モチーフを描くのに用いられる墨線は,ほとんど一致する。基本的に両者は直接的な関係を有すると言える。しかしながら,両者で細部に多少異なる部分があり,この点を閲する事により,絹本画に対する紙本画の位置付けを明確に出来る事であろう。先に,大徳寺本D38の画面を見てみよう。画面上部には,雲に乗って降臨する五羅漢が表され,画面下部には,右手に,刀の山の前に三叉を置いて脆き,羅漢達を見上げて恭敬する牛頭,左手に,猛火に釜茄でされるはずの有情が,羅漢達の降臨を受けてか釜の上に生い出た蓮の花葉とともに,煮え湯から身を乗り出して一時の清涼を喜ぶ様が表されている。釜上左端に,羅漢達を見上げて両手を合わせる一有情の姿がある。他の3人の有情が色黒く骨張って描かれるのと異なり,色白く頭髪も濃く描かれる。胸元に片乳房が表されるのを見れば,これが女性である事は疑いないであろう。ところで,東福寺本下絵T8sで同所を見ると,女性の乳房の輪郭を表すと思しき曲線が,右腕下に見受けられるものの,ここに乳頭が失われている。さらに,東福寺本本らず,一筋の雛であるかのようにしか受け取れない。ここでは,T8 sの図様よりも,T8の図様の方がさらに崩れたものとなっている。T8の図様を写す事から,T8 sの図様が生まれたとは考えにくい。T8sの図様は,T8の図様より以前に存在していた,と見るべきであろう。つまり,T8 sはT8の下絵である,と位置づける事が相応しい。けれども,例えば,大徳寺本D61の画面では,画面下部で経机を並べて筆を執る羅漢達を前に,画面中央左で,如意を執り威儀を正して経を講じる羅漢の姿が有る。この羅漢が背にする三曲の扉風には,中央・側面のそれぞれに喬木を主モチーフに据えた絵T8では,同所にー墨線が認められるものの,既に乳房としての形状を保つてはお308
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