鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ハ叫UハUつd風景を描く墨画が認められる。東福寺本T11でも同様に,扉風画に喬木とその下に茂る葉叢・一屋,遠山の並びに至るまで,原画の調子をかなりの程度に伝えている。ところが,その下絵T11sでは,扉風の画面に相当する箇所は素地のまま残され,何の情報も載せられていない。T11を描く際に,T11s以外にも,原本の情報を記録した資料が有ったと考えるべきであろうか。東福寺本の制作状況については,東福寺本下絵の内容を参考にしながらも,なお,慎重に考察を進める必要がある。さて,既に前文中では,大徳寺本を東福寺本の原本に当たるものとして位置付け,叙述を進めている。けれども,本当に東福寺本の原本として大徳寺本そのものを当てて良いものであるのかどうかこれはあらためて検証されなければならない事である。南宋淳照5年(1178)に林庭珪・周季常が描き,現在,大徳寺他に分蔵される五百羅漢図100幅は,明兆の五百羅漢図の原本として挙げられる機会が多い。然るに,大徳寺本の内容を参照しつつも,東福寺本は南宋から元代あたりの寧波仏画等,比較的新来の中国画を本に描いたもの,と直接的に大徳寺本を原本に当てない説も見受けられる。『本朝画史』巻第三「僧明兆」の項には,「五百羅漢図,専其倣顔輝之図,顔輝真跡在鎌倉建長寺,明兆写之,帰東福寺後所画とあり,明兆が五百羅漢図を描く際,鎌倉建長寺にあった顔輝の作品を原本とした,と伝えている。しかし,現在,建長寺の所蔵品の中に,これに該当するような作品を確認する事はできない。中巌円月(1300-1375)の『東海ー温集J巻二疏の部に収められた「画五百羅漢疏井序」には,「巨福名山。…但以未有阿羅漢像為扶典也。山中頼有別宗令公。瓢逸之才。能作水墨之戯。飴波及彩絵。雄国工不能敵也。故発志写五百応真。永鎮山門。J[上村観光編『五山文学全集第二巻』思文閤,1973年復刻,pp.42, 43J の記事があり,後文から,これが50幅のものであった事が知られる。別宗自身については詳らかにしえず,また,この作品も伝わらないが,中巌円月の「疏井序jが有るからには,この作品の存在を史実として置くべきであろう。明兆作画の時期から,さして遡らない時にこうした作品のあった事は,当然明兆にも知られていたもの,と想也J[r日本絵画論大系II.I p.391J

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