鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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(1247)・正嘉2年(1258)の両度の,罷災の後,元亨3年(1323),北条貞時十三年忌供像して差し支えないであろう。上文中の記事からは,当時,建長寺には別宗の五百羅漢図以外に「阿羅漢像jの無かった事も読みとれる。一方,鎌倉円覚寺が所蔵する五百羅漢図は,張思恭筆とされる33幅と,明兆筆とされる16幅と,狩野養川の補作になるl幅とを合わせた50幅の作品である。もともと張思恭の手になった50幅の内,欠けた分を明兆が補ったと伝えられる。前者は重要文化財,後者は県指定文化財に分けて指定されている。円覚寺本は,1幅に10人の羅漢を描くものであり,図様構成等の点で,東福寺本との類似点も少なくない。これを明兆画の原本とする説も行われている。明兆が大徳寺本を写す事の出来た蓋然性を探る為の指針として,大穂寺本の所在について,思いを巡らしておきたい。1894年,ボストン美術館での展観時に於いて,富田幸次郎は,この作品の来歴について,113世紀に日本にもたらされ,鎌倉寿福寺に蔵された。後,北条家によって箱根早雲寺に移された。1590年,豊臣秀吉がこれを京都方広寺に寄進し,次いで大徳寺の所蔵となった。J(英文抄訳)と紹介している。これは寺伝に基づく説と解され,その云う所を証する事は難しい。寿福寺は,宝治元年養には多数の僧衆が参じた旨の史料も見えこの頃までには復興されていたようである。けれども,応、永2年(1395)・応仁元年(1467)の被災後は,往古の盛観を失ったという。また,早雲寺は,大永元年(1521),北条氏綱が,父伊勢宗端(北条早雲)の遺命により建立したと伝える。天正18年(1590),秀吉の小田原攻めにより,廃嘘と化した。明兆が大徳寺本を見たとすれば,それは,鎌倉の寿福寺が所有していた頃の出来事と推察される。以上のように,特に,前代より相次いで禅宗寺院の創建があった鎌倉の地は,明兆の時代に於いてもなお五百羅漢図制作の揺藍の地たり得たであろう事が想像される。再び,東福寺本と大徳寺本との対応について,画面の中の事象に目を向けてみよう。先に掲出した表中の関係で明らかなように,東福寺本と大徳寺本とは,基本的な図様構成に共通性を持つ点で,大いに関連付けられるべきである。しかしながら,例えば細部の描写に於いては,かなりの相違が目に付くと言わざるを得ない。大徳寺本D56には,虎・獅子・牛・鹿・象の5頭の獣の背に乗って歩み来る,五羅漢が描かれている。東福寺本T20では,別の獅子を1頭足しているが,この獅子の姿は

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