司iqJ 警jと呼ばれる特徴的な髪型は安康墓の女備にも見られ,さらにV字形をなす頭部(2) 備に見られる線刻文字(3) 裏陽の歴史的背景そのほぼ真下にあたる足の上には孔が確認でき,本来は儀刀(儀剣)の類を按じていたことが分かる。その姿から想起されるのは,部県墓墓門部分の彩色壁画上の門吏像〔図6)や裏陽墓の画像碍上の人物で,この2点の「男侍衛偏」も門吏(門衛)の役割を担うものと考えてよいだろう。そして,この備に見られる正面鑑賞性,全体にすらりと長身な体躯表現などの特徴は,洛陽北貌伺の造形感覚にも通じる点で興味深い。やはり鎮墓というような何か特殊の役割を担っていた可能性がある。また,菊頭履を履くことから比較的身分は高いと思われ墓主の近侍であったのかもしれない。「偏(胸部まで一体)と体の独特な接合方式も安康墓出土の陶備の大きな特徴であり〔図9) ,これらのことから裏陽墓と安康墓には密接な関連があったことが分かる。報告書では見過ごされていたが,裏陽墓出土のいくつかの陶備には,“五",“十",“馬三",“馬"などの文字や数字,記号が線刻されていることが調査によって確認できた。例えば,11式侍衛偏」の背には「馬三」とあり〔図10),この備が牽馬の類であることが分かる。また,数字については墓内での配置に関わるものかと推測される。こうした伺の職能や配置を表わす文字や数字の他に,後頭部と背中に同ーの記号があるものもあり,これは頭と体を接合する際の目印だと考えられよう。同種の文字や数字,記号は都県墓出土の陶備にも見られ,裏陽墓同様,後頭部,背中,そして足裏に親刻されている〔図11)(注5)。南北朝時代の備の中でも極めて異例なこうした線刻文字の類が裏陽墓と部県墓の備に見られることは,地理的にも近い両者の密接な影響関係を示している。南北朝時代において,漢水は北朝から南朝へ,また南朝から北朝へ向かう軍事上極めて重要な経路であった。その漢水中流に位置する裏陽(当時の薙州)は,南朝にとって「北朝にたいする侵略と防衛の第一線におかれた軍事都市」であったという(注6 )。さらに嚢陽は北朝との通商貿易も盛んに行われた商業都市で,南斉時代にはすでに南朝の貨幣流通圏に入り南斉から梁時代に重要視された都市の一つであったことD 女侍備8 )。いかなる理由で女偏がこれほど大型につくられたのか他に類例がなく不明だが,I 1式女侍備」は高さ48cmと先の武人偏同様,一際大型である点注目される〔図7,
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