。。円も指摘されている(注7)。このように裏陽は,軍事上の要衝として,また南北の商業交流の場として,南朝と北朝双方の文化と常に接触を持ち得る状況にあったといえ,裏陽墓出土の南朝備に北朝的要素が見られたのもまさにそうした南北境界という地理的特性に起因するものといえる。永元2年(500年),薙州刺史であった粛桁(後の梁武帝)は嚢陽で挙兵したが,彼は漢中や安康を含む梁州,南・北秦州をも軍事的に掌握していたといい,その領域がまさに漢水上・中流域の南朝画像碍墓の分布範囲と重なるのは単なる偶然ではないかもしれない。報告書では裏陽墓の年代について,上限を郵県墓,下限を惰初としている。しかし,部県墓の年代については,梁普通4年(523年)から陳天嘉3年(562年)とする説や,東晋から梁とする説など未だ不確定である(注8)。ここでは関連のある漢水流域一帯の南朝画像碍墓全体を視野に入れて裏陽墓の年代を推測してみたい。安康地区では近年梁天監5年(506年)画像碑墓の発見があり,出土した陶備が漢中墓の備と近い特徴を有していることは,i莫中墓の年代を考える上で一つの指標となる(注9)。一方,安康墓の陶備は梁天監5年墓のものとは異なる特徴を示しており,両者の間にある程度の年代的な差があると見るべきかもしれない。ただ,安康地区から出土した紀年碑を見ると圧倒的に梁時代前半(とくに天監年間)のものが多く,その頃が安康地区における南朝画像碍墓造営の最盛期であった可能性が高い。また,裏陽墓の陶備と洛陽北貌備との関連を先に少し触れたが,裏陽墓やさらに郵県墓における「北朝の影響jを考える時,地理的に見て洛陽とのつながりがまず想定される。実際,漢水流域の南朝備の特色である歩行状の姿勢をとった洛陽出土の北貌備が存在するなど〔図12J(注10)洛陽北貌備はとくに裏陽墓や部県墓など漢水中流域の陶備の成立を考える上で一つの鍵となり得ると言える。その洛陽北貌伺について,520年代以降の様相は元部墓などこれまでの出土例によってほぼ明らかになったが,洛陽遷都直後の500年代から510年代頃の陶備は今尚その実体が不明である。先に挙げた安康梁天監5年墓出土の陶伺は,まさにその洛陽北貌備の空白の時期と重なるという点でも興味深い。いずれにせよ,とくにつながりの強い安康地区の状況や洛陽北貌備との関連などから考えて,嚢陽墓の年代を6世紀前半の梁時代前半に設定するのが現段階では妥当な(4) 年代についてJ
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