ように思われる。湖北地区では武漢地区を中心に南朝画像碍墓がこれまで数多く発見されており,出土した南朝備の分布を見ても圧倒的に武漢地区に集中していることから,この地域が南朝備の一大中心地であったことが分かる。武漢地区の南朝画像碑墓出土の南朝備について,今回新たに行った現地調査の成果も踏まえつつ,ここでは(1)北朝陶伺との関連,(2)南京南朝偏との関連,(3)武漢独自の要素,という3つの視点から,代表的な作例をいくつか選んで、見ていくことにする。出土した貨幣から梁普通4年(523年)を上限とする武昌呉家湾画像碍墓出土の陶偏〔図13)は,従来から北朝備との類似が指摘されていた(注11)。確かに偏の出土数22体は,同時期の南京一帯のものに比べると多く,また南京では見られない「胡偏」や「鎮墓獣」も出土しており,備の構成など北朝備との直接的あるいは間接的影響があるのも事実である。しかし,卵形で厚みや量感が感じられる寛袖の表現などは,南京の莞化門梁粛偉墓(532年)や同じく梁時代と思われる張家庫2号墓出土の女備を訪梯させ〔図14),またほとんどの備が挟手をしているが,これも漢民族の伝統の強い南京南朝備の特徴のーっといえる。したがって,呉家湾画像碍墓出土の陶備は備の出土数や種類という点では確かに北朝の影響が認められるが,造形的にはむしろ南京南朝備との関連が考えられる。一方,かつて『考古』紙上に掲載された武漢出土の3体の南朝陶偏〔図15)は,図版の不鮮明さも手伝ってこれまであまり注目されてこなかった。しかし,1)片方の手を袖手し,一方を胸前に置く所作をとる点,2)寛袖の袖口が波状に表現されている点,3)龍冠備の存在など,部分的に裏陽墓〔図16)や郵県墓〔図17),さらには北朝備との類似も見出せる点で興味深い資料と言える(注12)。以上のことから,裏陽墓なと可莫水中流域の南朝備を介しての可能性もあるが,武漢地区の陶備には北朝備の要素が確かに存在する。しかし,全体的に見て武漢地区における北朝備の影響はやはりごく一部であると言わざるを得ず,裏陽墓はじめ漢水上・中流域の南朝偏ほどその影響は色濃くない。(1) 北朝陶備との関連3 武漢地区出土の南朝間偏
元のページ ../index.html#329