鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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4 おわりに(2) 南京南朝備との関連(3) 武漢独自の要素南京の南朝備については,これまでの出土例カ、ら,1)備の出土数及び種類の少なさ,2)扶手中心の所作,3)造形的な簡略化傾向,4)帝陵クラスにおける石備の埋葬,などいくつかの特徴を指摘できるが,全体的に見て北朝に比べると伺に対する意識はかなり低いと言わざるを得ない。漢水流域の南朝備が南京の備と様相を大きく異にしていることはすでに述べたが,これは逆に言えば南京南朝備の影響力がこの地域についてはほとんどなかったことを示している。しかしながら,武漢地区の場合はやや状況が異なり,むしろ南京南朝備の影響が重要な要素のーっとなっている。その代表的な例として,梁普通元年(520年)の武昌東湖三官殿画像碍墓出土の陶備が挙げられる(注13)。この墓からは女偏と男偏各2体ずつ計4体の陶備が出土しており〔図右)と非常に近い造形を示す。同様の備は武昌M481やM483(いずれも未報告)からも出土しており,とくに前者からは南京南朝墓でしばしば見られる扇形の暑を結う女備が出土している([図19)左)。また,この2基の墓及び武昌M203(未報告)から出土した両手を胸前で構える男備とほぼ同ーのものが南京でも出土している(注14)。これらは南京でつくられたものが直接もたらされたか,あるいはその同箔である可能性が高い。南京南朝備の直接的な影響が武漢地区ほどはっきりと見られる地域は他にほとんどなく,武漢が首都・南京と密接な関係にあったことがうかがえる。武漢M203から南京南朝備に見られるのとほぼ同一の備が出土していることはすでに指摘したが,この墓からはさらに手づくね成形のやや稚拙な造形の陶備も出土している。同様の手づくねの陶備は,はっきりとした年代は不明だが武漢地区の他の南朝墓でもいくつか見つかっており,南京でも,漢水流域でも見られないこれら一群の陶伺は,武漢地区の地域的な独自性を示すものと考えられる。残念ながら,ほとんどが未公表でありここで詳しく言及することはできないが,こうした武漢地区の南朝偏に見られた独自性を考える上で,三国・両晋時代における武漢地区の偏生産の伝統がその背景のーっとして考えられる。南朝画像碍墓は南京を起点に湖北省の武漢や裏陽,河南省の郵県,さらには陳西省18) ,南京の梁粛秀墓(518年)や同じく梁時代と見られる童家山墓出土の備([図19)-320-

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