鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
331/716

南部の漢中や安康へと大きな拡がりを見せている。しかしながら,備を中心に考察した結果,南京から遠く離れるにしたがって,南朝備の様相は大きく異なることが今回明らかになった。とくに南北境界に位置した漢水流域を中心として分布する南朝画像碍墓出土の陶備は,南京南朝備とは大きく異なる独自の特徴を有し,そこには南北境界地域という地理的特殊性に起因する北朝陶備の影響が大きく関わっていることが理解できた。今回最初に考察した嚢陽墓について漢水流域の南朝画像碑墓の中でもとりわけ郵県墓と安康墓との結びつきが強いことを指摘したが,言い換えれば,裏陽墓の陶備は部県墓と安康墓双方の要素を併せ持つということである。互いに隣接するという地理的要因が大きいが,南朝画像碍墓の地域的な拡がりと北朝陶備の南朝への影響という対向する2つの流れを考えると,裏陽墓は南北境界地域の南朝墓における一つの交差点的な位置付けにあると考えられるのではないだろうか(注15)。裏陽墓からその北の都県墓を結ぶルートの先には洛陽が,そして裏陽墓から漢水を辿るルートの先には西安がそれぞれ北朝の大都市として存在するが(注16),今回はとくに洛陽との関連に着目した。南北朝時代,洛陽が都として文化的に大きな影響力を有していたのが北魂洛陽選都の494年から東・西貌への分裂に伴い荒廃化した535年までの約40年の期間であり,さらに安康梁天監5年画像碍墓出土の陶備の存在など近隣の安康地区の状況などから,嚢陽墓の年代は6世紀前半の梁時代前半とするのが最も妥当であると考えられる。一方,武漢地区出土の陶備にも一部だが北朝陶備の影響が確認できた。ただ,当初予想していた程その影響は大きくはなかったのも事実である。また,造形的に裏陽墓はじめ漢水上・中流域の南朝備との積極的な関連も一部の例を除くとほとんど認められなかった。その反面,武漢地区の南朝偏には南京南朝陶偏の直接的な影響が確認できた。とくに南京南朝偏あるいはその同箔製品の流入という他地域ではほとんど見られない状況が武漢地区で見られたことは,武漢地区が南京との強いつながりを持った重要な地域であったことを裏付けている。さらに,武漢地区では造形的に稚拙ではあるが地域的な独自性を示す一群の陶備が一方で、は存在するというように,多彩な要素が混在するという状況が見られた。南北境界にあたる漢水上・中流域の南朝備が,北朝備の影響下に独自の展開と発展を遂げたのに比べると,武漢地区の南朝備については,様式的に大きな展開は見られず,やや混沌とした状況にあったといえる。こうし-321-

元のページ  ../index.html#331

このブックを見る