鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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注(1 ) 拙稿11漢中市崖家営墓j出土の間備についてJr中国南北朝時代における小文化(4) 南京の南朝墓でも北朝の鎮墓獣に相当するものは存在するが(1陶犀牛J,I窮奇」(5)部県墓出土の陶偏には以下のような線刻が確認できる。1)後頭部及び背中:(6) 吉川忠夫『侯景の乱始末記』中央公論社(中公新書357),1974年(7) 南朝時代の裏陽については,稲葉弘高氏の論考に詳しい(1南朝に於ける羅州の地位Jr集刊東洋学』第34号,1975年,1梁代通貨に関する覚書Jr集刊東洋学』第31号,1974年)。また,裏陽の商業面での発達に関連して,5世紀前半に西域胡商のた状況に大きな変化が見られるのはむしろ続く陪時代になってからであり,武漢地区では惰偏全体の中でも造形的に極めて完成度の高い陶備が生み出された〔図20J。武漢陪備には漢水上・中流域の南朝伺との類似点も一部に見られることから,陪王朝による南北統ーを契機として,漢水流域の独特な文化をも取り込みながら,武漢地区の偏生産に新たな局面が切り聞かれた可能性も考えられる。今後は陪備への展開も視野に入れながら,南朝陶備の地域性の問題についてさらに研究を進めたい。センターの研究一漢中・安康地区調査報告-.1筑波大学芸術学系八木研究室,など),それらはむしろ直接的な祖形を西晋時代の独角獣に求めることができ,北方鮮卑文化の習俗と深い関連があると考えられる北朝の鎮墓武人偏・鎮墓獣とは系統を異にしたものと思われる(拙稿「陪伺考Jr美術史論叢造形と文化J雄山閤,2000年)。, 1 ",“11 ",“五ぺ“六",“七",“九",“大七",“バペ“呂ぺ“不",“之"など;2 )足裏:“万",“儀万ぺ“捉大ぺ“捉バペ“車"など1998年,八木春生・小津正人・小林仁「中国南北朝時代の“小文化センター"の研究徐州地区を中心としてJ r鹿島美術研究.1(年報第15号別冊)財団法人鹿島美術財団,1998年(2) (1)参照,漢中市博物館「漢中市崖家営西貌墓清理記Jr考古典文物.11981-2 ,裏奨市文物管理処[嚢陽貰家沖画像碍墓Jr江漢考古.11986-1 ,河南省文化局文物工作隊『部県彩色画像樽墓J文物出版社,1958年,李啓良・徐信印「険西安康長嶺南朝墓清理簡報Jr考古輿文物.11986-3 (3) (1)参照322-

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