鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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(9) (1)参照康氏3000余家の移住がきっかけとなり商業活動が活発化したのではないかとの指摘もある(川勝義雄「侯景の乱と南朝の貨幣経済Jr東方学報』京都第32冊,1962 年)。裏陽のみならず,漢水流域にはこうした胡人や少数民族(非漢民族)も当時多く居住しており,この地域の文化を考える上で見逃せない要素のーっといえる。(8) (2),柳酒「部県画像碍墓的時代和研究Jr考古j1959-5 ,Annette L. Juliano, TENG-HSIEN : An Important Six Dynasties Tomb, Artibus Asia巴Publishers,1980 らおそらく馬か何かを牽いているようである。同様の備が現在まで洛陽では他に出土していないなど問題も残るが,部県墓や嚢陽墓が洛陽の北貌偏と関連があった可能性を示すものとして興味深い。偶」大阪市立美術館編『六朝の美術J平凡社,1976年),また秋山進午氏も北朝陶儒との類似を指摘している(1墓葬と出土品」大阪市立美物館編『六朝の美術J平凡社,1976年)。同湖北省文物管理処「湖北地区古墓葬的主要特点Jr考古j1959-11 同武漢市博物館「武昌東湖三宮殿墓梁墓清理簡報Jr江漢考古j1991-2 凶この資料は現在南京市博物館に所蔵されているが,残念ながら未発表である。同八木春生氏は,この漢水流域の文化圏は「互いにゆるやかなつながりを持った中及び小丈化センターJによって形成されており,その中心が中文化センターとしての南陽盆地(漢水中流域)地区であったのではないかと推測している(八木春生「南朝の小文化センターについて一漢中および安康地区を中心に-J r雲岡石窟文様論』法蔵館,2000年)。同また,嚢陽を起点にj折川・武闘を経て,関中に向かうという桓温の第一次北伐のルートも知られる。近年,漸川で陪に比定される画像碍墓が発見されたことは,その意味で注目される(南陽市文物研究所,i折川県博物館「河南省斯川県西嶺惰画像碍墓Jr中原文物j96-3 )。-323-。。秦廷械『中国古代陶塑芸術』中国古典芸術出版社,1957年,図版15,その姿勢かω 武漢市革委会文化局文物工作組「武昌呉家湾発掘一座古墓Jr文物j1975-6 ,この呉家湾墓の陶備について,佐藤雅彦氏は「北貌スタイル」と評し(1陶磁・土

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