③ ロダン宛日本人書簡についての調査・研究研究者:静岡県立美術館学芸員泰井はじめにこの調査・研究は,ロダンと日本との芸術的影響関係を解明するに際し,さしあたって両者が交わした書簡など資料・文献を調査するものである。それによって,ロダンと日本との関係に新たな視座をもたらすことを目的とする。国内外に所在する,日本人のロダン宛書簡,及び関連資料については,千田敬一氏が行った調査を除けば,これまで本格的な調査がなされていない。なかでも,パリ・ロダン美術館には,日本人に関わる書簡類が多く現存する。また,国内にも個人蔵のものを含め,多数の関連資料が所在するが,これについても,その大半が未調査である。今回の調査では,可能な限り,ロダンと日本との関係を考察する上で必要な未発表の資料を精査した。1 ロダンと日本との最初の出会いロダンと日本との出会いに関して,その先駆的役割を果たしたのは,1904 (明治37)年,当時農商務省より海外窯業練習生を命じられ,1903年に渡仏していた沼田一雅(1873-1954, 1906年帰国,その後東京美術学校教授)であった。彼は,セーヴル磁器工場での研修を望みながら,外国人入所不可とされ,やむなくアカデミー・ジュリアンで彫刻研修を始めた。そして,ここで、知合った中村不折,岡精ーとロダン邸を訪問することになる。1904年10月3日付で沼田がロダンに宛てた(恐らく,セーヴルの同僚でロダンの友人であるM.ドアットに翻訳を依頼したと考えられる)書簡には,I今月6日,木曜日,ジャン・ポール・ローランスの弟子である中村氏,岡氏とともに,ロダンのコレクションを拝見しに,参上したいj旨が記されている(注1)(図1]。その書簡の内容通り,彼らは三日後の1904年10月6日,ロダン邸を訪れ,コレクションを実見し,さらに首尾よくロダンのデッサンまで入手したのである。この出来事は,日本におけるロダン・デッサン受容にとって極めて意義深い(不折が持ち帰ったデッサンは,1909年6月の太平洋画会第7回展に出品された,これが恐らく日本での初公開例であろう)。その後,弟子となった荻原守衛が渡仏するまでの間,ロダンを訪問した彫刻家とし良24
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