ては,高岡出身の彫刻家・本保義太郎(1875-1907,東京美術学校卒業後,1904年セントルイス万国博覧会調査のため渡米,05年10月農商務省の命で渡仏,同11月エコール・デ・ボザール彫刻科に学ぶ,パリで客死)が記録として残されており,ロダン美術館には1通の書簡と2通の紹介状が現存する(注2)。前者は,本保がロダンに宛てた訪問に対する礼状で,紹介状は,ロダンと交流のあった銀行家アルベール・カーンのものと,日本大使館のものとがある。これらの資料によって,本保がロダンと初めて出会ったのが,1907年4月6日であり,これにはアルベール・カーン及び五来欣造が関わっていたこと等が判る。また,ロダンと日本との関係にとって重要な役割を果たした人物に,ポール=ルイ・クーシュー(1879-1959)がいる。クーシューは,フランスの哲学者・精神科医で,俳句をヨーロッパに本格的に紹介した人物である。1903年にアルベール・カーン財団の支援により来日し,戦時下の日本の国家,民衆,社会,文化などを日記に克明に綴った後,帰国した。また,1916年にパリのカルマン・レヴイ社から俳譜と日本文化に深く言及した『アジアの賢人と詩人』を刊行した。本書から垣間見られる彼の日本観は,ロダンのそれとも通じるところがあり,彼がロダンに与えた影響は少なくないように思われる。また,今回の調査した書簡のなかには,1907年1月16日,彼がロダンに宛てた荻原守衛の紹介状がある。また,遡って1905年12月31日付で彼がロダンに宛てた書簡には,I東京でのフランス美術展(expositionfrancaise a Tokyo) Jのことが言及されている(注3)。資料などから判断して,本展が開催された形跡はないが,ここにはロダンの作品が出品予定だった可能性がある。だとすれば,1914年に開催される予定で,聞かれずじまいとなった東京での「ロダン・デッサン展」以前にも,同様の計画があったことを示唆していよう。る研究については,千田敬一氏等諸氏によって詳細になされているので,ここでは割愛したい。ロダンと日本との交流に際し,最も力を尽くしたのが,1910 (明治43)年に創刊された雑誌『白樺』であったことは言うまでもない。そして,創刊から7ヶ月後に刊行された『白樺ロダン特集号』によって,ロダンと白樺は強い粋で結ぼれる。1907年10月頃には,ロダンの弟子となる荻原守衛がロダンと面談する。これに関わ2 雑誌『白樺Jの創刊と不開催に終わったロダン・デッサン展25
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