道教像にみられる紀年銘は,永平~永昌年間(508~515)を中心とする北説時代後期1]。主尊は胸前で扶手し獅子座に侍坐しており,その着衣全体および頭部には流れるように繊細な平行多線文が均等な間隔で刻まれている。同様に左右の脇侍立像や光背に配される飛天像の着衣にも,細かい平行多線文がみられる。このように本像は,同時期に造られた帝都洛陽・龍門石窟の造像とは全く異なる様式を示している。本研究で扱う平行多線文造像は,着衣に生じるしわを写実的に表現したものではなく,実際の衣文線とは無関係な同質の刻線が均等な間隔で数多く刻まれた造像を指している。なお北貌時代の造像のなかには稚拙な衣文線が刻まれた作例があり,一見すると本研究で取り上げる「平行多線文造像」ともみうけられる。しかし両者の扶坐像や交脚像における脚部の衣文表現を比較すると,大きな相違が確認できる。前者は膝頭の衣文を刻まないことで,その丸みを立体的に表現している。一方後者では永昌四年銘道教三尊像〔図2)のように,脚部全体に多数の細やかな平行線文を刻むのみで立体感に乏しい造形となっている。2 平行多線文造像の分布平行多線文が刻まれた造像は険西省のほか甘粛省,山西省にわたって分布している。そこで制作年代が比較的早い造像を含む地域を中心に,A西安とその近郊,Bそれ以外の地域,に大きく二分して各地の造像の特徴を明らかにする。なお出土地が明確ではない作例についても可能な限り言及する〔図3)。A 西安とその近郊西安市内や近郊の臨撞区,富平県,耀県などから出土した南北朝時代の造像のなかには,数多くの平行多線文造像がみられる。このうち,まず注目すべき西安市西部の礼泉寺社から出土した造像に触れ,続けて西安とその近郊を中心に数多くみられる四面像について述べる。A -1 札泉寺祉出土造像と出土地不詳の平行多線文造像先述したように,西安市西部の札泉寺社から南北朝■唐時代の造像が近年大量に出土したわけだが,このうち北貌時代に属するとおもわれるこつの造像は平行多線文造像を考える上で重要な作例といえる(注7)。なぜならこれらの造像が,日本に収蔵される永昌四年銘道教三尊像〔図2)や如来三尊像(東京国立博物館所蔵)C図4)を含む一群の平行多線文造像と共通する特徴を示しているからである。この一群の仏教・のもので,出土地については「伝西安将来」あるいは「伝険西将来」とされる作例も-345-
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