鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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4通行にあたり,書簡によりロダンに正確な誕生日を聞くことになる。その返事として,ロダンが同年9月22日付で同人に宛てた書簡の最後には鉛筆で「浮世絵と自分のデッサンと交換したいJ(注4)と書かれていた。そこで,白樺としては「私かに素画一枚ぐらいくれ、ばjという期待を持ち,1911年7月から8月頃に浮世絵30枚を送るが,記されていた。また,ここで「東京でのデッサン展」開催が提案され,続く9月17日にも,デッサン展についての具体的指示が出される。白樺同人(有島壬生馬)は,10 る協力を約束する。「不開催に終わったロダン・デッサン展」については,拙稿「不開催に終わったロダン・デッサン展をめぐってJ(rロダンの水彩画とデッサン展』簡は,以下の通りである。安達峰一郎の書簡有島壬生馬の書簡稲垣吉蔵の書簡石井菊次郎(駐仏大使・男爵)の書簡輿謝野寛(鉄幹)の書簡松岡曙村の書簡黒田清輝の書簡ロダン翁作品展覧会実行委員会の書簡ロダンと日本との書簡調査を行うなかで,ロダンとその助手を務めた稲垣吉蔵との関係が重要で、あると考え,同調査には時間を費やした。稲垣吉蔵(1876-1951)は,1876 (明治9)年4月11日,現在の新潟県村上市に,宮大工をしていた父稲垣末吉,母ナカの次男として生まれた。吉蔵の父・末吉は宮大工を生業としており,村の工芸を一手に担う職人であった。稲垣もまた,幼い頃から,伝統工芸に親しんだのである。1900年9月,東京美術学校彫刻科(塑造科)選科に入学。同期生には,後に長い親交を結ぶことになる東京都出身の田中親光,後進には畑月25日付のロダン宛書簡(注5)で,ブロンズ寄贈に対する謝礼とデッサン展に対す3 ロダンの助手・稲垣吉蔵1910年9月,白樺同人はロダンの生誕70年を記念した『白樺ロダン特集号Jの刊同8月18日付でロダンが同人に宛てた書簡には,意外にもブロンズ3点を送ることが1999年,静岡県立美術館)を参照されたい。また,同展に関わる日本人のロダン宛書2通1通1通1通8通1通l通-26-

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