鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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している。この地域の造像は,小禽と大寵を上下に聞き,下部に供養人が配される点が大きな特徴といえる。なお平行多線文が刻まれた出土地不詳である北貌時代の如来三尊像(浜松市美術館所蔵)はこれらの造像と共通点が多く,制作地をおおよそ推定することカすできるだろう。② 慶陽北石窟寺永平二年(509)頃に造営された慶陽南・北石窟寺は甘粛省東部を代表する石窟といえる。なかでも平行多線文造像がみられるのは,北貌時代後期の造営と考えられる北石窟寺の北一号窟である(注17)。北一号窟は石窟中央を掘り残した中心柱窟で,内部の風化が進み禽内の主尊は後補も多いが,中心柱下層の寵捕に浮彫された供養人などに平行多線文の衣文がみられる。北面では中央に配された如来情坐像,その左右にひざまついて両手を合わせる多数の供養人すべての着衣に流れるように細かな平行多線文が刻まれている〔図15)。このように陳西省西北部や甘粛省東端においても,いくつかの平行多線文造像がみられる。このうち単独像の平行多線文は素朴なものであり石窟においてはその一部にのみ平行多線文が刻まれるにとどまっている。またその造像年代も,西安とその近郊の平行多線文造像と比較するならば,いずれもこれを遡るものではなく,西安とその近安防当らの影響を受けて平行多線文が刻まれるようになったと推測される。またこの地域においても,平行多線文造像はそれほど流行しなかったと考えられる。B -3 山西省東南部このほか,山西省においてもいくつかの平行多線文造像がみられる。たとえば神亀元年(518)銘の碑像(南京博物館所蔵)は,山西省東南部の瀦安(現在の長治市)で発見されたという作例であるが(注18)・〔図16),主尊着衣の両膝や裳懸部分,また脇侍立像や供養人の一部に平行多線文を確認することができる。さらに同地域にある泌県南浬水石刻館では,北貌時代後期の四面像のなかに,漢民族式着衣の腹部や脚部そして雑技をする人物に,素朴な平行多線文が刻まれている作例をみることができる(注19)。平行多線文だけでなく雑技図といった漢民族的図族が合わせて刻まれる点は,平行多線文造像があまり流行しなかったと思われる陳北や陳西省西北部・甘粛省東端にも確認できるものである。このことから山西省東南部の平行多線文造像についても,西安とその近郊の造像との影響関係が窺えるであろう。350

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