鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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うに捉えられたのであろうか。前述したように平行多線文造像は西安の造像の衣丈表現を模倣したものにはじまったものだが,しかしながら平行多線文造像は着衣に生じるしわを写実的にあらわそうとせず,それとは無関係にあたかも平行多線文を描いた大衣を着けたようにみえる作例もある。おそらく平行多線文は,当初には衣文の表現として模倣した単純なものだったが,次第にひとつの文様として理解されるようになったと思われる。そう理解することにより,尊像の衣だけでなく動物の身体など様々なものにも平行多線文が刻まれるにいたった理由が説明できるのではないだろうか(注22)。平行多線文は,元来は西安とその近郊にみられる造像の立体的な彫法を稚拙に模倣したものであったが,あたかも「平行多線文の刻まれた衣jのような表現もみられることから,おそらく次第に文様として理解されるにいたったと思われる。その結果,平行多線文そのものが大きな造像上の特徴として広く流行したのではないかと推測されるのである。おわりに以上,平行多線文が刻まれた造像について考察を試みた。その結果,これらの造像が西安とその近郊や険北南部だけでなく,甘粛省東端や山西省東南部にまで分布するものであることが明らかとなった。さらには平行多線文造像が郎県(富県)を中心として造られたものではなく,西安とその近郊で最も集中して造られたものであったため,従来の松原氏による郎県様式という括りで論じるられるものではないことが明確となり,あえて名付けるならば「富平耀県様式Jとでも称すべきものといえるだろう。平行多線文が刻まれた造像は,5世紀後半から6世紀初頭における西安とその近郊造像と密接に結びついて出現したものであったが,たんにその模倣にとどまるものではなかった。また平行多線文の表現には,着衣の肩,腕,袖などの部位ごとに刻まれるものと,着衣全体を流れるように刻まれるものの二種類あることがわかった。このことから平行多線文は初期の段階では衣文の表現として刻まれていたものが,次第に文様として理解されるにいたったと思われる。さらに西安とその近郊の四面像をみる域の平行多線文造像にも,漢民族の伝統図像が合わせて刻まれることが多い。つまり平行多線丈が刻まれた表現は,漢民族の伝統図像と共に各地域へ伝えられたと推測すと510年代に入り漢民族の伝統図像が増加しているが,興味深いことに,それ以外の地-353-

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