(11) なお前掲『中国仏教彫刻史論』には,平行多線文が刻まれる道教二面像(アメリ(13) 福地石窟は一窟のみが現存する。石窟のプランは方形・平頂で,奥行・幅・高さ示され,本研究もこれに従っている。)李訟『険西仏教芸術J芸術家出版社1999 神塚淑子『六朝道教思想、の研究J創文社1999 佐藤智水「険西省耀県の北貌造像碑についてJr芝蘭集一好並隆司先生退官記念論集一』芝蘭集編集委員会1999 造像の名称、については基本的に『北朝仏道造像碑精選』によった。同これらの図像についての詳細な論考として八木春生「北貌時代後期の仏(道)教造像に見られる漢民族の伝統図像についてJ(r仏教芸術.1245号1999)がある。カ・フィールド自然史博物館所蔵)が掲載されている(写真は造像のある二面のみ・図101)。松原氏は解説(同書第五章,36頁)として,側面に太和二十三年(499)の紀年を有する銘文があり,像主は現在の西安近郊・淫陽県の人としている。しかし本像はOsvaldSiren, Chinese Sculpture (London, 1925)に,西安将来の作例として掲載されるが(Plate123B),その解説では銘文の存在について全く触れられていない。以上のことから本像の制作年代については実見したうえで干食言すしたい。斯之林「険北発現ー批北朝石窟和摩崖造像Jr文物.11989-4 いずれも2mにみたず,前部は崩れている。王子雲『陳西古代石彫刻I.I険西人民出版社1985 前掲「険北発現ー批北朝石窟和摩崖造像J同早崎氏が将来したという永平銘道教三尊像の元所在地として知られる富県石弘寺石窟は,その大部分が唐・宋時代に開窟されたものである。わずかではあるが南北朝時代までさかのぼる可能性のある造像を確認することができるが,現時点ではその造像年代など詳細は不明である。同このほか富県に隣接する甘粛省合水県の保全寺石窟においても,平行多線文らしき衣文が刻まれた造像がみられるが,その造像年代などは不明である。同「陳西省長武県出土一批仏道造像碑Jr文物.11987-3 制『臨東石窟』文物出版社1987 -355-ω 石窟のプランは方形,平頂で奥行・幅各1.2mほどの小窟である。
元のページ ../index.html#365