北一号窟は北石窟寺の主たる石窟群から蒲河を約2kmほどさかのぼった地点に聞かれている。正壁に如来三尊立像,左右の側壁は上下二段にわたって寵を設けている。中心柱は側壁と対応するように上下二層に区分され,このうち下層は方形で四面に各一寵,上層は八角形を呈しその各面に禽を聞いている。基本的なプランに関しては,同じく中心柱窟である雲岡石窟第6窟の影響をみることができるが,造像には平行多線文を刻んでおり,北貌時代の平城と長安に挟まれた地方の造像における複雑な影響関係を示すものといえる。同金申『中国紀年仏像図典J文物出版社1994 同山西省考古研究所編『山西考古四十年』山西人民出版社1994 山西省東南部における南北朝時代の造像には,平行多線文造像のほか大同雲岡石窟や洛陽龍門石窟との影響関係を示す作例も多い。この地域の造像については,他の山西省東部の造像とも合わせ,稿を改めて論じたい。側蘇哲「北朝画像石の調査と研究一北魂墓の狩猟図をめぐる一考察-J r鹿島美術研究(年報第17号別冊).1鹿島美術財団2000 制前掲,r六朝道教思想、の研究.1495頁を参照。仰なお山東,江蘇や河南,四川などに分布する漢時代の画像石墓には,人々の着衣から車馬に至るまで細かく平行線を線刻するものが確認できる。このような線刻は陳西の画像石墓にはみられないもので,平行多線文造像とは直接結びつくものではないものの興味深い図像といえる。356
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