正吉,石井鶴三などがおり,在学中の教授陣には高村光雲,山田鬼斎(常吉),白井雨山(保次郎),藤田文蔵がいた。残念ながら,稲垣が美術学校時代に制作した彫刻作品は一切現存せず,知何なる作風だ、ったのかを確認するには至っていない。1904年7月,稲垣は〈裸体婦人}(所在不明)を卒業制作として提出し,東京美術学校彫刻科を卒業,その後,一時,故郷村上町に帰郷し,家族との別離を惜しんだ後,当時越後では屈指の湊であった瀬波湊より香港に出航する。香港での滞在期間は,田中親光が稲垣に宛てた絵葉書から推定すると,1904 (明治37)年10月頃から1906年1月頃までの,およで,稲垣は「或る骨董商の蔵品を引受け,専ら学人の為に各種の古器物に,木の台を取付ける仕事を始め」たのである(注6)。これによって,稲垣は香港での生計を立てていたと考えられる。再び帰京した後,1906年6月8日,日本を離れ,同年7月20日,パリに到着し,ロダンとの出会いを果たす。ギュスターヴ・コキオによれば,稲垣がロダンのオテル・ピロンやムードンのアトリエで仕事をしていたのは,1912年から1916年のおよそ4年間であった(注7)。以下には,ロダンが稲垣を助手とした経緯を示した書簡を引用しておく。1913 (大正2)年2月10日付でロダンが稲垣に宛てた書簡には,r私は,あなたが,明日,ヴァレンヌ通り(のアトリエ)に来てくださることを期待しております。私の小さな古美術品を修理すると,そうお約束下さいましたねJ(注8)と記されている。この頃,ロダンは収集していた古美術品を修理してくれる職人を探しており,そのことが稲垣と出会う契機となった。そのため,ロダンは稲垣に数多くの古美術品の修理を依頼している。例えば,1926 (昭和元)年11月,稲垣が知人安富成中氏に贈った「香合JC図2Jは,彼が修理したもので,下部には台が付けられている。これを見ると,香合と下部の台はす分違わず,しかも釘,模などを用いずに接合されており,稲垣の仕事の巧妙さが窺える。こうした稲垣の車越した技巧が,ロダンを感服させ,次第にその作品制作においても重要な役割を担うようになったと考えられる。1916(大正5) 年1月6日付でロダンが稲垣に宛てた書簡には,以下のような記述が見られる。「ご病気でしょうか?私のせいで体調を崩されたのでしょうか?もしそうでしたら,それは私の思いに反することです。あなたは,私がこの上なく愛する方のお一人ですし,共に多くの仕事をしていると考えておりました。あなたを頼っても良いかどうかそ1年半である。滞在先は「英領香港士丹利街三十八野村氏方」であった。ここ-27-
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