⑮ 1960年代日本のパフォーマンス研究I一一文化としての「ゼ口次元J・序論ーーへの走り書き研究者:福岡アジア美術館学芸員黒田雷児I なぜ「ゼロ次元Jかこの11960年代日本のパフォーマンス研究」の第一弾として,まず「ゼロ次元」に集中して調査を行ったことにはいくつかの理由がある。それはこのグループが,美術家という出自をもっパフォーマー集団の中では,最も長命にして,最多のパフォーマンス発表を行ったという意味で,少なくとも1960年代では最大のパフォーマー集団だったと思われるからである。他のいかなる美術家・美術グループとも異なり,1ゼロ次元jは,その当初から「集団jであることを表現の基礎とし,かつ,作品が展示された空間を使うことはあっても生の肉体が中心的なメディアであり,そして,1963年から1972年までの10年間という長きにわたって,本論末の加藤好弘の言葉(1970年)では1300回以上J(現時点の資料で確認できたものだけでも80回以上)のパフォーマンスを行ったのである。第二の理由は,このような「ゼロ次元」の重要性にもかかわらず,これまでの研究は,雑誌『裸眼Jの「ゼロ次元J特集(注1)や,同誌の編集を行った三頭谷鷹史による岩田信市へのインタビュー(注2)を除けば,皆無といってよいからである。そもそも,すでに膨大な実践の歴史があるにもかかわらず,日本では美術家によるパフォーマンスの研究がほとんどなされていない現状からすればこれは驚くにはあたらない。しかも『裸眼』を含みその他の日本戦後美術史研究において「ゼロ次元jが言及されることはあっても(注3),各時代の一般的な潮流のー傾向として簡単にふれられるだけであった。第三の理由は,既存のジャンルに回収されない脱領域性・脱芸術性を,1ゼロ次元」こそがその初期から終末まで一貫して志向し続けたがゆえに,パフォーマンスというメディア本来の広範な可能性を考察するに適していると思われるからである。まず「ゼロ次元」は,美術評論家に認められて新聞の美術欄や美術専門雑誌に掲載されることを求めなかった。「ゼロ次元」の中心メンバーだった加藤好弘が自分たちの活動についての長文のエッセイを連載したのは映画雑誌『映画評論』だ、った。また美術館やギャラリーのような,どんな物体もただちに「美術」として聞い込まれる場でも,当-362-
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