鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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時の実験音楽や舞踏のように「高級芸術jのためのホールででもなく,人通りの多い街頭で,ストリップ劇場で,バリケード封鎖された大学構内で,一般市民の視線にさらされることをこそ望んだ、。また,当時は屋外や街頭での実験をさかんに行っていた演劇にもカテゴライズされることはなかった。第四の理由は,Iゼロ次元jが,単に脱領域的・脱芸術的な場で表現を行っただけではなく,1960年代に肥大しつつあったマス・メディアと,東京オリンピックと高度成長によって急変貌した都市という,この時代に出現した新しい社会空間を存分に利用したからである。いわゆる「前衛美術j作家の中で「ゼロ次元」ほど一貫して大衆社会・都市環境に対して果敢なアプローチをした例はあまりないだろう。「全裸JIポルノ」というスキャンダラスな要素によってであれ,Iアングラjという風俗現象によってであれ,あるいは学園紛争や三里塚闘争のような政治運動との関係によってであれ,通俗的な週刊誌によって伝えられて有名になることを彼らは望んだのである。第五に,マスコミの注目を集めるこのような通俗性・下品さに加えて,文化人に解釈しやすいストーリー(たとえば「舞踏jと農耕文化の関係とか,エロテイシズムの解放など)をも許さないような,狂気じみた不可解さを「ゼロ次元jが常に持っていたがゆえに,近代的・西洋的な批評や思考の枠組自体を無効にし,それに代わる世界観を提案するという,I美術」の課題をはるかに超えた無謀なまでに壮大な意図があったかもしれないからである。「片手上げ」とともに「ゼロ次元jのトレードマークのような,尻に蝋燭を突き立てる「エゲ、ツナイj行為〔図1J, 1969年の加藤好弘の逮捕につながる確信犯的「狼豪物陳列罪jの犯行,裸体女性を伴うポルノ的な行為が,カウンター・カルチャーの拡大によって若者に理解のある文化人の受容力の限界を越えていたことは想像に難くない。しかもその強烈なキャラクターでマスコミ向けのインタビューやエッセイを一手に引き受けていた加藤の,I街を強姦するJI女の生理のように月一回の儀式を行う」というような頻出する狸豪語,それと唐突に組み合わされる怪しげな仏教的用語,異常な鏡舌さと絶対の自信が,(通常の)コミュニケーションを拒否しているように思われたことだろう。そもそも「街を強姦する」というような加藤の言い方自体が,観衆からのフィードパックを期待したものではないのは明らかだ。また,集団による片手上げ・寝転がり・筒旬・ひっくりかえるなどの単純なポーズ,ビジネススーツ・仮面・防毒マスク・紅白の縄・布団などの小道具は,たとえそれぞれに演出効果上ない-363-

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