鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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しは象徴的な解釈をすることは可能ではあっても,常にそこには笑いを凍り付かせるような不気味さ,もっともらしい解釈を脱臼させる異界的・異教的な不可解さがあった。「ゼロ次元」が,自分たちの表現メディアを呼ぶとき,Iハプニング」というアメリカ直輸入の用語を避けて,異界との交感や異教的な精神世界を暗示する「儀式」という語を使っていたのは,この時代の日本人が未だ「パフォーマンスjという用語を持たなかったからだけではないだろう(注4)。次に,約10年にわたる「ゼロ次元Jの活動の軌跡を略述してみる。パフォーマンス集団としての「ゼロ次元」は,加藤好弘と岩田信市という,二人の著しく異なる,しかしどちらも強烈なキャラクターと知性と組織力と行動力を持つ人物の出会いによるものだったといってよい。ただし「ゼロ次元jとは,創立当初からパフォーマンス集団だったわけではなく,1959年頃に,川口弘太郎の命名により,岩田信市を中心に小岩高義らの名古屋の若い美術家たちによって結成されたグループにすぎなかった。この「原ゼロ次元」は,数回のグループ展を愛知県文化会館美術館などで聞いたが,この時代の事績は現時点では未調査に近い。しかしその聞に,小岩がすでに「箱をつくってその中に入りリンゴをかじったりJ(注5)する行為を行っていたことは注目される。これと平行して,多摩美術学校を卒業して「青年美術家協会」展を組織していた加藤が,どの時点でこの「原ゼロ次元jに参加し,絵画や版画から街頭でのパフォーマンスへの飛躍がなぜ可能であったかを明らかにするには,さらなるインタビューや彼らの平面作品の検証が必要であろう。「原ゼロ次元jの名付け親だった川口が脱落して岩田・小岩・加藤を含む30数名が,1963年1月に,愛知県文化会館美術館での「狂気ナンセンス展jにおいて,名古屋の中心部の路上をはいずって移動したのが,儀式集団「ゼロ次元」の出発である〔図さまな卑俗さや秘教'1生がなかったこと,その出発点が(美術展の関連イベントではあっても)まさに街頭で行われたこと,加藤的というより岩田的な単純明快さを求める性格が強かったことが注目される。これに対し,同年3月の読売アンデパンダン展でE 概観「ゼロ次元jの軌跡2 )。なおこの第一回の「儀式」は着衣で行われ,後に裸や小道具で強調されるあから1 原ゼロ次元1960-62年2 初期1963-64年364

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