鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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めいせいの儀式〔図3)は,やはり作品の前で寝転がるだけという単純なものではあったが,加藤はすでに自作に『ある入滅式マンダラ(3/10変革儀式1) .1というような題名をつけ,しかも展示作品といっ舞台装置によって行為に秘儀的な意味づけを与えようとする,後に「ゼロ次元jを支配した志向性が現れていた。この時期の「ゼロ次元jの記録は主に名古屋という地方都市で行われたこともあって,映像は後述の長野千秋のもの(現時点で未見)を除けば皆無で,写真も断片的であり,文字記録も少ないため,その活動内容を把握しづらい。写真とデータで確認できるものとしては,1964年1月,名古屋中心部の地下街や百貨店で,1手造りの等身大のペニスをモモヒキ下着に外科用の骨折コルセット姿で背中にしばりつけて,栄町をブラ下げたつもりで行進した」儀式(注6)[図4)がある。次いで1964年7月には東京の内科画廊で,rコレガゼロ次元だ!!Jと題して岩田,加藤,小岩が連続個展および儀式を行なう。翌8月には「日本超芸術見本市jを愛知県文化会館美術館で聞き,ここに九州派,浅井ますお,おおえまさのり,糸井貫二(ダダカン),水上旬らが参加し,それが後の万博破壊共闘派につながっていく。また翌9月には長野千秋監督によるテレビドキュメンタリーに篠原有司男,小野洋子,観光芸術研究所らと出演し,次第に名古屋から全国的な場へと露出していったことが想像される。次の時期は,加藤が東京に居を構え,岩田は名古屋に住みこの両者が独立して活動しながら重要なイベントには合同して活動した時代である。であるからこの時期の発表は,二つのグループ単独のものと合体したものとがともに「ゼロ次元Jの名で行われているので注意が必要である。しかし東京のほうが,アジテーター・加藤の存在と,全国メディアや様々な支援者・共闘者の存在によって,主な発表の場になったのも確かである。特に加藤が明星電器社長としての豊かな収入を「ゼロ次元」の活動にあてるようになってから,その活動は直観的で単純な行為によるものから,次第に大掛かりな仕掛けを伴うようになってくる。また加藤の残した絵入りの「儀式」のプランから見て,初期に使われたさまざまな行為のパターンや小道具・大道具を総合しながら,綴密なプランニングによってぽかぽかしさを巧みに演出するようになってきたといえる。この時期前半には「アングラjという風俗的なカテゴライズもされることなく,初発性と計画性がバランスをとり始め,いわば最も「ゼロ次元」らしい活動をした時期であるためにこの時期を「盛期jといってもいい。3 中期1965-68年-365-

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