鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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特にこの時代からは,1965年11月の内科画廊での発表〔図5)を最後に,美術館やギャラリーでの発表がなくなり,また初期と同様に日比谷や新宿,渋谷など街頭〔図10, 12)での発表を続けながらも,そのパフォーマンスの場所が著しく多様になったことが重要である。ホテル結婚式場,山手線や都電の車内〔図6),公衆浴場〔図7)(ただしこの儀式は1970年),長良川河畔や五色園〔図8)や海岸などの広大な野外,墓地,鹿島神社,能舞台地下室,代々木メーデー会場,大衆演芸場〔図9),アングラ劇場からクラブ,ストリップ劇場に加えて,映画やテレビにも出演する。それと同時に,現時点で確認できる最も早いものでは1965年1月号の月刊誌『推理Jに平田実の写真・文で「ゼロ次元」が紹介されたのを始め,Iゼロ次元jに強い共感をもった写真家たち(注7)によってゼロ次元はマスコミでますます知られるようになり,加藤は,唐十郎,金坂健二,大林宣彦,横尾忠則らとともに「アングラ」文化の寵児になっていった。この時期の「ゼロ次元jの典型的なパフォーマンスのスタイルを確認することのできるものとしては,渋谷駅から始まり近くの温泉に移動して行った1967年8月の「超音波作戦J(図10)をあげてよかろう。これは秋山祐徳太子の記録によれば,Iモーニング姿で,渋谷ハチ公の前に正座をし,おもむろに右手を上げ,超音波パスまで行進する。風呂に行くイントロの部分があり,超音波にそのモーニングのまま飛び込んで、,軍艦マーチ勇ましく儀式するJ(注8)というものだ、った。また同じ秋山が「なんといっても見事だったjと賞賛するのが,同年12月,I新宿の土曜の人波の夜街を全裸男が片手をあげて,ゆっくり,ゆっくり防毒マスクのクダを長くなびかせ,人類未踏の商庖街の酷寒のコンクリート上をふみしめ行進していったJ(注9)儀式〔図11)である。この例でもわかるように,表現上の特徴としては,同じ衣装や小道具がさまざまな機会に繰り返し使われるようになったことである。特に街頭で行う場合は全裸が容易に警察の介入を招く危険もあったためもあろうが,下着だけの情けない姿は全裸よりもかえってビジネスや買い物に勤しむ人たちとの対照をユーモラスに示したであろうし,西洋人男性の仮面,防毒面,紅白の縄,蒲団〔図12),ビジネススーツ,脚幹,傘,日の丸,背中の幼児や人形などが,無個性,卑俗さ,祝祭性,不合理さを演出するようになった。これらの小道具や衣装は,片手上げ〔図11,13, 15),寝転がり〔図14)(ただしこの儀式は1969年),両足を聞いて仰向けにひっくりかえる「降参」のポーズ,ホイホイ踊りなと守の基本動作パターンと組み合わされて,多くのバリエーションが生-366-

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