まれた。ここには明らかに,意図的に日本の伝統的祝祭や,高度成長期にはみすぼらしく見えつつあった日本の生活様式を参照していることが様々な解釈を誘うが,ここでは次の岩田信市による非常に示唆的な言葉を引くにとどめる。「さて,こうした表現行為をしている内にふと気がついてみると,かつて少年の頃熱中していた歌舞伎の中に,それらのものがみんなあったのではないか。尻餅をつく型は,トンボを切った後で,両足を上げるポーズそのものだ。紅白の樺とナンパの動きは『暫Jの引っ込みだ。『千本桜渡海屋の場』での釣り糸をくわえての引っ込みは,もっと卑猿な型で,ドナルド・リッチ監督,ゼロ次元出演の映画『シベール』で表現されたものと,まったく同じだ。J(注10)この時期の後半,1967年5月の代々木・メーデー会場での「奇脳舌(きのした)サーカス小屋見世物大会」あたりを初めとして,1968年になると,日本各地のパフォーマンス集団・個人(加藤好弘の言葉でいう「儀式屋J),映像作家たちとの合同の発表が増えていく。その1968年には,本牧亭(上野)での「狂気見本市J(3月)(図9J,アングラポップ(上野)での「ブラックフェステイパルJ(10月),シアターピットイン(新宿)での「これが8ジェネレーションだJ,イイノホール(虎ノ門)での「狂気見本市大会年忘れアングラまつりJ(以上11月)と立て続けに大きなイベントに参加する。そこで共演したのは,末永蒼生らの「告陰J,小山哲男らの「ビタミンアートJ,秋山祐徳太子,水上旬,ヨシダミノル,実験映画作家かわなかのぶひろらによる18(エイト)ジ、ェネレーションJ,映画作家・評論家・写真家の金坂健二,後に万博会場で先駆的?ストリーキングを行う糸井貫二(ダダカン),そして「九州派J(実際は桜井孝身とオチオサムだけ)らである。会場はストリップ劇場からより高級な舞台芸術用のホールまで,街頭というよりは演劇や芸能,見世物の舞台になってくる。それは複数グループの連続発表のためには都合がいいだけではなく,全裸,排便などのパブリックスペースでは行いにくい過激な行為を可能にした。しかしあまりにも多くの発表(注11)と,このような舞台上での発表,特にイイノホールでの発表が,初期・中期における街頭での果敢な発表の初発性を失わせ,観衆と隔絶した空間の限界やマンネリ化を加藤に痛感させた(注12)。この自覚が,1反万国博覧会」という別のストーリーを彼に要求した理由のひとつかもしれない。-367-
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