鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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が,1972年9月15日の写真が,一貫して写真記録を行ってきた北出幸男によるネガの現存する最後のものである。また岩田所蔵の名古屋大学での『愛の浅間山荘』のフィルムは1972年2月の「浅間山荘事件jの後である。このほか1971年9月の法政大学〔図17),10月の慶鷹大学などが写真記録から確認される。しかしこのような大学祭での出演によって,その出発点であった都市空間への挑戦を喪失し,かつ共闘期のような万博という明確な仮想敵を失ってしまい,逮捕の危険も避けていくとすれば,今でいう「イベント屋」的なアトラクションになってしまっただろう。むしろ共闘解体以後の重要な仕事は,1970年におおえまさのりによって撮影されこの年末に一応完成したと思われる2時間を越える(注14)長大な16mm映画『いなばの白うさぎj(図18)であろう。当時の若い映画作家が8mmフィルム代にも困っていた当時としては,16 mmでこの長さといえば膨大な経費とエネルギーを費やしたものであり,加藤は,複数の儀式を組み合わせ,性器的なエロスを越えた全身的エロスの追求を,白うさぎこ子供(カウンターカルチャーの若者)・対・わにざめ=大人(支配体制)をめぐるドラマを神話じたてのストーリーを通して表現しようとした。しかし性器が露出する映像は通常の映画館では公開できなかったはずなので,一般観衆から隔離された谷中墓地で行われた『シベール』と同様,直接路上の雑踏の中で儀式を行う快感を放棄してでも,加藤が自分の儀式のみならず思想(夢想)をも後世に「作品jとして残そうとした意志の表れであろう。『いなばの白うさぎ』の制作や大学祭での発表をもって1972年頃に「ゼロ次元Jの活動が完全に終わったと考えていい理由は,加藤と岩田という「ゼロ次元」を支えた両輪がこの頃から各人の道を歩んでいったことからでもある(注15)。加藤はハレ・クリシュナ思想との出会いを契機として,1972年のインド行きによって見出したタントラ思想と夢の研究に専心し,1980年には渡米する。岩田信市のほうは,1970年に愛知県文化会館美術館でのゴミ状の作品撤去事件に抗議する裁判闘争を起こし「ゴミ姦団」としての活動を行い,1973年には名古屋市長選に立候補し,そして1979年に結成された歌舞伎劇団「スーパ一一座jを主導していくのである。E 開示された問題群以上駆け足で「ゼ、ロ次元jの展開を述べてきたが,データ集積や年譜の作成などの基本作業が未だ中途の段階なので,このような記述だけでも幾多の調査不足の点を含369

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