鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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教えて下さい。何故なら,近頃,私はかなり色々な事が出来そうなのです。あなたと夫人に心より賛辞を送りますJ(注9)。また,同年4月24日付書簡には「もし必要であれば,<クレマンテル氏の胸像〉に適度の湿気を保つために,ムードンへ行って下さいますでしょうかJ(注10)と記されている。この粘土に濡れ布を掛け,湿気を保つ仕事は,ロダンが助手たちにさせていた重要な仕事であり,ここからも彼の稲垣に対する信頼感が窺える。ロダンが稲垣を助手としたのには,彼が卓越した技巧を有していたことに加えて,日本の伝統工芸職人に特有の機転と感性とを持ち合せていたからであろう。次のような逸話が伝えられている。ある博覧会に日本の会社が純日本式茶室の模型を出品したことがあった。材料は当地で組み立てることになっていたが,それらは長い船旅により狂いを生じてしまっていた。困り果てた後,稲垣に組み立てを依頼したところ,彼は職人たちを助け,これを見事に成功させたという(注11)。このエピソードは,稲垣の木材についての優れた知識のみならず,簡潔で、無駄の無い動きと他人との絶妙なコンビネーションを窺わせる。ロダンは,こうした日本の工芸職人が有する卓越した「技jを高く評価したのである。それゆえ,ロダンと稲垣との交流は,日本美術がロダンに対して与えた影響を考察するに際して,重要なー側面を示している。今回の調査で,時間的制約の関係上,調査し尽くせなかった人物についても,引き続き調査をしたいと考えている。例えば,I不開催に終わったロダン・デッサン展jに際し,当時日本大使館参事官としてロダンとの交渉にあたり,後にジ、ユネーヴの国際司法裁判所長官に就任した安達峰一郎に関しては,膨大な資料を精査する機会を設けたいと考えている。同じく,東京でのデッサン展の折に,ロダンとの直接交渉にあたった,鹿児島出身で当時東京朝日新聞の関係者だ、った松岡曙村とロダンとの遣り取りについても,今後調査が必要である。そして,駐日フランス公使等を歴任した本野一郎とその妻久子とアルベール・カーンとの関係,またそれによるロダンとの交流についても詳しく調査したいと考えている。なお,末尾には,今回の調査で入手した主な書簡の差出人名,宛先,日付のリストを掲載したので,参照されたい。4 その他,ロダンと交流のあった日本人-28-

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