注(1) r裸眼.13号(ゼロ次元特集),1986年12月,美術読本出版,名古屋(2) 編集構成・三頭谷鷹史「岩田信市が語る岩田信市的世界J岩田信市『現代美術終ゆめのき(3) 針生一郎『戦後美術盛衰史.1(東京書籍1979年)および千葉成夫『現代美術逸脱う宗教行事における人間の振る舞いが,その時代の政治的・宗教的・文化的な要因とどのように関連してきたかをとらえることで,1960年代という,日本戦後美術史のみならず高度経済成長による日本社会の大変草の時期でもあり,さらには世界的にも「西洋・近代」という価値への異議申し立ての時代であった時期における「ゼロ次元jの活動を解読することも可能かもしれない。たとえば,貴族社会から武土社会への大転換の時代であった鎌倉時代の宗教が,明恵の『夢記.1(注19),一遍の「踊念仏J,性結合を即身成仏への道とする立川流など,それぞれ異なる意味で「ゼロ次元j的な文化を生み出したように。このような認識に立ってこそ初めて,本論Iの最後に述べたような「ゼロ次元」の「異界的・異教的な不可解さ」を,I政治」にでも「風俗」にでも,まして「芸術」の中に位置づけるのでもなく,時代や地域の境界を超えた広範な「文化jの中に位置づけることができるのである。「ゼロ次元特有のエロスは何かといいますと,物なんですよ。物と事柄。(中略)坊主が滝に打たれるわけだけど,あれは滝と人間とを対象として,何か違う宇宙へ行くという太古からある方法論なんです。そこでゼロ次元は,対象を滝じゃなくて街にする。海や山や川は不自然でシュールレアリスムに見えちゃうように,現代のリアリティはやっぱり街だ。だから滝に坊主が打たれるのと同じように,街にぼくたちも身体を打たれていく,その繰り返しの10年間でね,これをもう300回以上やってるわけですよ。」(加藤好弘)(注20)鷲の予兆1970・80年代の名古屋美術界.1,スーパー企画,1995年,pp.220-256史.1(晶丈社,1988年)参照。これ以外に「ゼロ次元」を扱った文献としては,1960 年代の前衛的な作家についての同時代者としての記録であるヨシダ・ヨシエの『解体劇の幕降りて60年代前衛美術史.1(造形杜,1982年)のみである。したがって,新世代の美術評論家である橿木野衣による『日本・現代・美術.1(新潮社,1998年)がその「裸のテロリストたち」と題した章で,糸井貫二や「ゼロ次元」などを本格的に論じたのは画期的なことである。371 (2001. 5 .20)
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